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Korea!2009/02/20その二

(カテゴリ:韓国旅行記

チャガルチに戻って、裏通りに入る。
看板を、読む。
「ポ、、、リ、、、パプ?(보리밥)」
「パプ」(밥)はご飯だということをすでに理解していたので、後はポリ(보리)であった。入るのが、怖い。どうしよう。
私は、日韓・韓日辞書を引きずり出して、「ポリ」の意味を、探った。
-麦。
そう、読めた。ならば、「麦ごはん」。そのように日本語に訳した時に、ほっとした。麦ごはんならば、きっと日本人にとって、外れはあるまい。
私は、店に入って、ポリパプを頼んだ。値段は、笑っちゃうほどに、安い。

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ポリパプ。
いろいろある付け合わせを、麦ごはんの中に投入して、混ぜて食べる。周りの人たちの食べ方を見て、習得した。
案の定、がっかりさせられなかった、と批評すべき味であった。飽きの来る、味ではある。しかし、この料金で、贅沢を言ってはならない。味噌汁なんか、美味いですよ。麦飯に味噌汁だけでも、元の取れる料金だ。


毎回男たちの食事は高さ数インチの暗色をした木製の小さな円い膳でひとりひとり別個に供される。ごはんは主食で、大きなボウルに盛って出されるが、それ以外に陶製の器がふつう最低五つか六つはならべられ、そのなかには風味のある、つまりおいしい薬味が入っている。
(イザベラ・バード『朝鮮旅行記』、pp.111)

バードが十九世紀末に観察した李朝の農村の食事には、現在の韓国人の基本的なお膳と同じ姿が、描かれている。ボウルによそわれたごはん一杯と、小さな薬味の皿がたくさん並べられる。これらの薬味を、好きな味になるだけ、ごはんに乗せて混ぜる。日本とは、白いごはんをどのようにして味わうかの方法が違うが、ごはんが主食である点は共通している。韓国人は、中国人のような麺(ミェン。小麦粉製品、つまり、めんやパン)を主食とする習慣とは、違っている。

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食った後で、橋を伝って、釜山の中心街から影島(ヨンド)向かう。
右に、釜山タワー。
左に、カモメの形をした、チャガルチ市場。
ははは、結局、今日も歩いている。
韓国人と同じで、私は歩くのが好きなのだよ。

旅の三日目に慶州で会った白皙の青年に、私は言ったものだ。
「日本人の血の半分は、韓国人なのさ。昔、百済(ペッチェ)から、日本に人がいっぱい来た。それはもう、いっぱいだ。百済ほどではないが、新羅(シルラ)からも、高句麗(コグリョ)からも、やって来た。日本語で、百済はクダラ。新羅は、シラギ。高句麗は、コマ。日本には、クダラ(百済)、シラキ(白木)、コマ(駒あるいは高麗)っていう地名が、いっぱいある。それはぜんぶ、昔韓国人が住み着いた所なのさ。」

私の生まれた土地の南河内は、かつてほとんど全体が、半島からの渡来人のコロニーであった。
ここの有力な氏族として、西文(かわちのふみ)氏があった。応神天皇の時代すなわち4世紀末から5世紀初頭に渡来したと『日本書紀』『古事記』に書かれている、王仁(わに)を始祖とする集団であった。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)、と記録されている。以下、『古事記』応神天皇記の、くだり。

また百済の国主(こにきし、国王)照古王、牡馬一疋(ひき)、牝馬一疋を、阿知吉師(あちきし)に付けて貢上(たてまつ)りき。この阿知吉師は阿直の史(あちのふひと)等が祖なり。また横刀と大鏡とを貢上りき。
また百済の国に科(おお)せたまいて、「もし賢(さか)し人あらば貢上れ」とのりたまいき。かれ命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師、すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を、この人に付けて貢進りき。この和邇吉師は文の首(ふみのおびと)等が祖なり。
また手人韓鍛(てひとからぬち)名は卓素、また呉服西(くれはとり)西素二人を貢上りき。また秦の造(はたのみやつこ)の祖、漢の直(あやのあたえ)の祖、また酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、またの名は須須許理(すすこり)等、まい渡り来つ。
かれこの須須許理、大御酒を醸みて献りき。ここに天皇、この献れる大御酒にうらげて(引用者注:浮かれ立って)、御歌よみしたまいしく、

須須許理が 醸みし酒に われ酔いにけり。
事無酒咲酒(ことなぐしえぐし。引用者注:平安無事で、愉快な酒)に われ酔いにけり。

かく歌いつつ幸行でましし時に、御杖もちて、大坂の道中(引用者注:二上山北側の、穴虫越え)なる大石を打ちたまいしかば、その石走り避(さ)りき。かれ諺に堅石も酔人を避るというなり。

愉快な、交流ではないか。
『古事記』の性質上、どうしても百済が日本王家に人を献上した、となっている。
だが、本当のところはたぶん違っていたのであろう。
馬飼いの技術、文字の博士、手人韓鍛すなわち鍛冶の技術、呉服すなわち機織りの技術、そして酒造の技術。日本の王が、百済人の造った酒に酔って、大和と河内の境にある二条山の峠道で浮かれて歌いながら街道脇の石をぶっ叩けば、石が怖がって逃げたとさ。昔は、両国民が互いに酒を飲んで、酔っていたものだ。
『古事記』に収録された伝承は、おそらく史実とは、言えないであろう。しかし、渡来人がかつての日本において身近なものであって、ゆえに渡来人がらみの伝承が豊富に残っていて、歴史編纂者に楽しいイメージを喚起させた、その風景は今でも感じ取ることができる。

私の生家のすぐそばにあった河内国古市の西琳寺(さいりんじ)は、王仁を始祖とする西文氏が建てた寺であった。今や小さな寺となっているが、かつては壮大な伽藍があったという。この土地で育ったアマチュア考古学者の私の父親が、私に教えてくれた。
「古市は、昔はすごいところやった。だんだん時代が下がっていくたんびに、田舎になってしもたんよ。」
父は、そう言って、ハハハと笑った。
古市から道明寺、藤井寺にかけての土地には、壮大な古墳群、恐ろしく由緒の古い寺院が、多数存在する。
そしてそれらの全てには、渡来人の手形が付いている。
「土師の里(はじのさと)」という地名があるが、これは渡来人系の古市土師氏のコロニーの跡だ。彼らは、墓を作り、墓の土器を作る技術集団であった。
また、南に行って富田林市に行けば、「錦織(にしこり)」という地名があり、錦織神社がある。この地こそ、仁徳天皇の時代に百済から渡来した、錦部首(にしきべのおびと)が住んだ、コロニーであった。いにしえの地名は、ずばり下百済郷(しもつくだらきょう)。河内国、石川郡、下百済郷。錦織神社のもともとの祭神は、上の『古事記』の引用に出て来る、照古王だったのだ。
ここに住んだ錦織氏は、やがて日本人に変わる。そうして、ずっとずっと後の鎌倉時代末期になって、さっそうと歴史に再登場する。

錦織判官代これを見て、「蓬(きたな)き物の行(ふるまい)かな。十善の君(引用者注:天子)に憑(たの)まれ奉りて、六波羅を敵に請(う)くる程の物が、敵大勢なればとて、戦わで逃る様やある。いつのために惜しむべき命ぞ。返せや、人終(ひとはて。引用者注:人非人。ひきょうもの)ども」と呼ばわって、向う敵に走り懸かり走り懸かり、大裸抜ぎ(おおはだぬぎ。引用者注:上半身裸になること)になってぞ、戦いける。矢種尽き、太刀折れぬれば、「聖運、天命に叶わず、我等が武運これまでなりけり」とて、親子・若党十三人、一所にて腹切って、戦場にぞ名を遺しける。(太平記、巻第三、笠置城没落の事)

後醍醐天皇がぶち挙げた北条幕府顛覆計画に、呼応してくれる馬鹿者なんぞは、ほとんどいない。
だいたいが天皇は中国から輸入した朱子学なんぞにかぶれて、君主が天下で一番えらいはずなのだから、家臣のぶんざいで皇位継承にまで口を挟む北条氏に、思想として腹を立てた。
精力だけは有り余っている天皇だから、公家どもを使って、盛んにアジ宣伝を行なわせる。当然、幕府に見つかる。幕府の京都駐在所である六波羅が、動く。宣伝の甲斐なく、武士のほとんどは、北条氏の味方。
そんな中で天皇のために馳せ参じた数少ない武者の一人が、河内の錦織判官代と、その一党であった。
錦織党は天皇と共に笠置山に立て篭もり、六波羅の大軍に立ち向かう。
衆寡、敵せず。
火と矢の嵐の中、錦織判官代は「いつのために惜しむべき命ぞ。返せや、人終ども!」と叫んで、大肌脱ぎになって、一族もろともに果てた。
こうして笠置は落ち、天皇は捉えられたが、錦織判官代の仇は、同じ河内国からやってきた楠木正成が、やがて討つことになる。

錦織判官代は、もう自分たちの祖先の故国のことなんか、すっかり忘れて日本人になっていたのだろう。だが、文学に活写された彼の熱い魂は、半島の民と、何とよく似ていることではないか。

半島の民は、かつてごくふつうに、日本にいたのだ。いつしか日本の土になじみ、故郷のことを、忘れてしまった。そうやって、白村江(はくすきのえ)の戦い以降、千三百年余り、両国には暗黒時代が続いている。
もう、この辺でよいではないか?

須須許理が日本にもたらした醸造の技術は、やがて日本で独特の発展を来たして、室町時代に神霊清浄な、「サケ」となった。
韓国では、「サケ」は韓国起源であると主張されているようだ。
後日知り合ったチェさんは、私に言った。
「日本語のサケは、韓国の『삭다』が、語源なのさ。」
チェさんは、私の辞書の「삭다」の項目に、丸を打った。これに使役動詞を作る「기」を間に挟めば、「삭기다」となる。チェさんはこれを、「サキダ」と発音した。
韓国語の「삭다」は、手元の『三修社 日韓・韓日辞典』を引くと、


1.(古くなって)すり切れる。すり減る。腐る。朽ちる。
2.(濃いものが)水っぽくなる。糖化される。柔らかくなる。
3.(食べたものが)消化される。こなれる。
4.(恨みや怒りなどが)ほぐれる。和らぐ。静まる。冷える。
5.(漬物などが)味がつく。漬かる。

となっている。おおよその意味を類推すれば、「熟(な)れる」という日本語が、一番近いであろう。それを使役動詞とするのであるから、「熟れさせる」である。または、「腐らせる」「糖化させる」である。だから、韓国語で威勢良く「熟らせ、熟らせ!」と杜氏たちが発声すれば、「サキヤ、サキヤ!」みたいに聞こえるわけで、日本の南大阪当たりならば、韓国人の杜氏たちがこのように発声しても、何にも違和感がないかもしれない。チェさんの説は、南大阪出身の私としては、個人的になかなか面白い。

日本の広辞苑には、「酒」の語源のことを、

サは接頭語、ケはカ(香)と同義。

としている。サケはサカとも言って、サケと共に頂く菜(な)がすなわち「肴(サカナ)」であるから、広辞苑の言葉には、説得力がある。
ただし、サケは上代から使われている古代語であって、万葉集ではサを取って音を変えた「キ」と読んでいる場合もあるが、上代にはまだ現代の香り高い清酒は存在せず、米を腐らせただけの「どぶろく」しかなかったことだけは、指摘しておきたい。

とにかく、サケが韓国起源であるかどうかを聞かれれば、私はこう意見する。それは、正しくもあり、正しくもない。
百済から技術がもたらされたことは、確かだろう。
だがそれは韓国のマッコルリのような、「どぶろく」の技術であったはずだ。「どぶろく」から発展させて、澄んで辛口の酒を醸したのは、日本の技術であったはずなのだ。日本のサケのはじまりは、韓国から来たのであろう。しかし現在の日本のサケは、韓国起源でない。

同じく、日本の九州で愛飲される焼酎(しょうちゅう)が韓国の焼酒(ソジュ)を起源としているという説は、伝来した年代と広まった地域の分布、それにもともとこの酒が「アラキ」と呼ばれていて韓国語のソジュのもともとの言い方である「アラクチュ(ペルシャ語で蒸留酒を表す語である「アラク」に「チュ」すなわち酒を加えた言葉。本当は「アラッチュ」に聞こえるが、わざと分かりやすいように強調した)」と全く同一である事実を見れば、琉球経由のタイ渡来説よりも、私としてむしろ有力な説ではないか、と思う。
しかし、現在の韓国の焼酒(ソジュ)と、日本の焼酎(しょうちゅう)は、全く別の酒に進化しているのだ。スコッチウィスキーとバーボンが起源を同じくしているのは明らかであるが、この二つの酒を同じとみなすことはできないのと、同じことなのだ。

橋を渡って、影島に入る。晴れているが、雨上がりで気温がいくぶん高く、風が強い。海は、かすんでいる。対馬島を見るのは、ちょっと無理かもしれないな。

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