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学而篇 子曰道千乗之国章

(カテゴリ:論語を読む

子の曰(のたまわ)く、千乗の国を道(おさ)むるには、事を敬(つつし)みて信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。


[現代語試訳]

孔先生が言われた。千乗の車を持っているほどに、大きな役所を持っている国の、その一官吏となった。大国の官吏たるものの心得とは、なんであろうか?それは、どんな事務でも真面目に行うことによって信用を得るように心がけ、予算は節約して人を愛し、民を徴用するときには時期を選ぶことだ。


[筆者のコメント]

「千乗之国」は決まり文句で、「戦車を千台集めることができる大国」という意味。孔子の当時であれば大国の斉はもちろんであり、孔子の時代には魯や衛はまだまだ強国であったから、この両国もまたそうであろう。孟子の時代にはさらに国家規模が巨大化して「萬(万)乗之国」という語句が現れた。(梁恵王章句上第一章「萬乗之國弑其君者、必千乗之家」)。

ところで、この戦車であるが、殷墟(紀元前一〇〇〇年紀)や始皇帝陵(紀元前三世紀末)からも出土するために、実際に古代中国で用いられていたことは明らかである。
しかしながら、それが実際の戦場でどれぐらい活躍したかどうかは、中国史から世界史にまで視野を広げて考えてみると、きわめてあやしい。オリエントのほうが中国よりも戦車が登場した時代は早い(おそらく中国の戦車は、オリエントの習慣が輸入されたものであろう)が、戦車が実戦で活躍するための条件は非常に狭く、そのために西洋では戦車が活躍した戦争の記録が少ない。ギリシャ人やローマ人は、スポーツとしての戦車競争のために、もっぱら戦車を用いた。

そもそも戦車を実戦に投入するためには地形は平地でなければならず、しかも高速で走らせるためには事前に整地を行う必要がある。その上戦車は直線に突撃する速度は速いが、戦場で自由に手綱を取って駆け回る機動力となると、よほどに熟達した御者がいなければ極めて怪しい。(将棋の「香車」が直進するだけの駒で、戦略的に大して重要な駒でないことは、ゲームとはいえ示唆的である。)だから調達にも輸送にも高価な戦車よりも、歩兵を大量に揃えた方が、よほどに簡便で実戦的であったに違いない。私は、古代中国の戦争で、戦車が実戦でどのぐらい役に立ったのかは、疑問に思うところである。むしろ、貴族たちを上に乗せて車を揃え、国力を戦場で示すための、示威部隊としての効果のほうが大きかったのではないかと思う。

では、どうして古代中国では、そんなに多くの戦車を集めたのであろうか?
それは、平時の官庁に車が必須だったからであったに違いない。
秦朝の制度では、全国の各県には官が乗車するための車が必ず用意されており、「厩司御」という役所付きの御者も置かれていた。後述する劉邦の幕僚の一人で彼の車の御者を勤めた夏候嬰は、無名時代に沛県の厩司御であった。
現代と同じで、各地の高官は自分で歩くことなく、役所が支給する車に乗って移動したのである。車の移動の便のために車軌は統一されて、道の轍(わだち)に沿って進めば高速で移動できるように配慮されていた。こうして平時には運転手として各地の都市において多数雇われていた馬車の御者たちは、いざ戦時となれば戦車を操って百官を乗せ、戦場に現れたと考えれば、極めて合理的である。

古代の「士」が学ぶべき学習科目には、「六芸」(りくげい)があった。

御・射・書・数・礼・楽。

御は御者術。射は弓術。書は読み書き。数は計算。礼は礼儀作法。楽は楽器演奏。
これらの学習科目をざっと見直すと、いずれも高位の貴族が身に付けるべき高尚な芸術というよりは、下級ランクの実務官吏が学ぶべき実用的技芸というべきである。
孔子学校では、これらの「六芸」を学ばせた。なぜならば、彼の学校で養成するのは「士」、すなわち、ようやく国家の役所で雇われる程度の、下級の役人なのだ。世襲の名家でなければとてもなれそうにない卿(大臣)や大夫(上級貴族)ではなくて、下級の役人ならば庶民でも頑張れば成り上がることができる。そして、孔子学校が教えるところは、「士」であっても王朝の一員であるからには礼楽を学ぶ必要があり、かつ民を治める官吏として高い志を持たなければならない、ということであった。いやむしろ、世襲の上層階級などよりもっと真面目に働くぐらいの気概を持つべきだ、ということが、孔子学校に集う数多の弟子たちに贈る、孔子の期待ではなかっただろうか。私は、そんなことを教える孔子学校の姿を、想像する。

孔子学校の第一の意義は、「士」となる最低限の技芸を学ばせて、よき官吏として就職させるところにあったに違いない。孔子自体が、博学で鄙事(ひじ、つまらないこと)に多芸であって、高尚な人間にしてはずいぶん変なことである、と世間の人々から不思議がられたものであった。

そのような孔子学校の姿を想像すると、本章の読み方はちょっと違ったものに見えはしないだろうか。

千乗の国を道(おさ)むるには、

千乗の国とは、それだけ多くの御者を抱え、つまり役人を抱える大がかりな国家のことだ。だが果たして、ここから以下の言葉は、まず第一に君主や宰相への心得として聞くべきなのだろうか?むしろ、孔子学校において生徒がすぐに聞きたいこと、直接に関心のあることとは、就職して下級の官吏になったときの心得ではないだろうか?

それを思って、この部分はむしろ、

-千乗の車を持っているほどに、大きな役所を持っている国の、その一官吏となった。大国の官吏たるものの心得とは、なんであろうか?

と、私は読んでみたい。

事を敬(つつし)みて信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。

-それは、どんな事務でも真面目に行うことによって信用を得るように心がけ、予算は節約して人を愛し、民を徴用するときには時期を選ぶことだ。

これらの戒めは、むしろ現場で実務を行い、組織の末端として直接に民と面し、民に徴発の命令を出さなければならない大国の官吏たちのための心得が第一の意義なのではないか、と(私個人のかつての役人経験より)思うのである。
現代の組織はITを用いた管理が行き届いてマニュアル化し、現場の裁量の幅は以前よりも大きく削り取られている。そのために現場の事務は定型化して、副作用として現場は指示待ち人間が跋扈して自主性が失われている。
しかし、古代の官庁では、地方間の連絡すら容易ではなかった。大国ともなれば組織が肥大化して管理がおろそかとなり、都からほんの100Kmも離れた地方都市の役所であれば、現場はモラルがなければたちまち腐敗して民を勝手に搾取したことであろう。広大な中国では、そんな事態は平常事態であることが、歴史であった。
そんな中で、しかし孔子学校の徒は、いざ官吏となればモラルを持って国と民のために真面目に働こうではないか。孔子もまた、下級の官吏が目覚めることによって、国全体の資質も向上し、やがてはその中から高位の職に抜擢される者が現れたならば理想の国家に近づくだろう、という遠大な改革の展望を、持っていたのではないだろうか。

漢王朝の創始者である劉邦は、地方都市である沛県の、鼻つまみ者であった。
農業を嫌がり任侠の徒と交わって旅して、帰郷しては悪友と遊び呆けて兄弟の家に食をせびる毎日の、当時の地方都市ならばどこにでもいたであろう、つまらない遊び人であった。
そんな劉邦は、同じ沛県で雇われていた役人たちと、知己の仲であった。

厩司御から県吏に取立てられた、夏候嬰。
獄掾(ごくえん)の、曹参。
主吏(しゅり)の、蕭何。

彼らは県の長官である県令の下で実務を扱う、地元採用の下級官吏であった。劉邦もまた後に亭長(ていちょう)という、じつにつまらない地方役人となったが、彼の勤務態度はちっとも真面目でなかった。彼は武芸も学問もないホラ吹きであったが、どこか憎めぬところがあって仲間は多く、蕭何のような県で結構重用されていた役人たちも、劉邦には頭が上がらなかった。

そんな彼らが、秦末の大動乱となって沛県が自衛せざるをえなくなったとき、蕭何・曹参たちは劉邦を沛公(はいこう)に推し立てて独立し、自ら国を興した。やがて紆余曲折の後にとうとう劉邦は帝位に就くのであるが、彼ら沛時代の幕僚たちは、大国の高官に出世してもよく役目を果たした。蕭何・曹参は、漢帝国の相国(しょうこく)、つまり総理大臣にまで登ったのである。彼らはもとしがない下級官吏であった。しかし、後に大出世してもよく職責を果たせるまでに、治世の道筋がよく分かっていたからこそ、建国の功臣となることができた。

彼らが生きていた秦代ごろには、きっと沛のような地方都市の塾でも、あるいは孔子の言葉などがテキストとして用いられていたのではないだろうか(劉邦は真面目ぶった儒者が、大嫌いであったそうだが)。『論語』の本章なども、曹参や蕭何などが読んでいたとしても、ちっともおかしくはない章であると、私は思うのである。

[付記]
荻生徂徠は、『論語徴』で本章に全く違った解釈を試みている。
すなわち、「道千乗之国」について、これはおそらく脱簡(だっかん。あるべき文や文字が抜け落ちていること)に違いなく、「道」は従来説のように「導く」という意味ではなくて、「道(みち)[を通る]」というべき意味であろう、と推測する。そうして、この章の本意は、じつは周代の天子が「巡狩(じゅんしゅ)」すなわち諸侯の封建された諸国を巡回して視察し、諸侯の政治を引き締める行事について言っていたはずなのだ、と。そのように読めば、本章は「天子が諸国を巡回する行事を行う際には、民を傷つけないようになるたけ節約するように心がけたのだ」というべき意味となる。

徂徠らしい強引な解釈であるが、おそらく彼の頭には、当時の華美で浪費的な政治パレードの数々があったに違いない。
大名が江戸と本国を毎年往来する、「参勤交代」。
将軍が家康を祀る日光東照宮に社参する、「日光社参」(徂徠の時代には、幕府の財政難から一時中止となっていた。徂徠の死の年に八代将軍吉宗が再開)。
そして将軍の代替わり時に李氏朝鮮王朝から釜山~対馬~瀬戸内海~大坂・京都~江戸と来訪する、「朝鮮通信使」。

徂徠の生きた時代にはこの「朝鮮通信使」が綱吉・家宣・吉宗の代替わり時に前後三回行われて、その華やかさは記録されて現代にまで伝わっている。これらのパレードは徳川幕府の権威を高めるために挙行された行事であったが、結果として街道の整備と宿場町の発展というプラスの効果をもたらし、逆に武士が江戸に集中して住むようになって彼らが貨幣なしでは暮せない生活となり、各藩が大坂などの商人に財政の首根っこを押さえられ、武士は借金に苦しみ困窮する事態を招いていた。

徂徠を独特の思想家としているのは、古典の研究家でありながら、研究を通じて古代社会の制度や経済についても考察を加え、ひるがえって彼が生きた時代についてもあるべき制度や経済の提言を行おうとした、現世的学問態度である。本章に対する徂徠の強引な(強引過ぎる)解釈もまた、彼の学問の流儀であろう。徂徠は、この章の注を書きながら、彼の時代の華やかなパレードが社会制度と経済に及ぼす影響にまで、思いを巡らせていたに違いない。

(07/06/2011)