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『国家論』佐藤優

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まず、昨日同氏の『国家の罠』をもう一度取り上げて読み、その後に本書を京都府立図書館で借りて読んだ。この本に引用された柄谷の『世界共和国へ』は、今日アマゾンで注文済み。この本も、購入するであろう。本著作中でマルクスと柄谷への言及が多くあることは、かつて微温的ながらも両者の著作を大学時代に読んだ経験が、比較的容易に述べられた内容をトレースすることに役立った。

私は、この理論書を読みながら、『孟子』を並行して考えていた。
『孟子』もまた、「統整的理念」(p216~)を言う。王道政治である。それは、現実の天下では実現不可能であり、しかし「このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、『超越論的な仮象』」ではないだろうか。

荀子、韓非子の挙げた国家改革論は、秦漢帝国の登場によって現実で達成された。
ゆえに、彼らの思想はすでに現実化されて、使命を終えている。
だが、孟子の思想は絶対実現できない理念であるがゆえに、いまだに使命を終えていないのではないか。
そんなことを、思った。

(ゲルナー)
・民族があるからナショナリズムが生じるのではなく、ナショナリズムが発生したところに民族が作られる。
・民族と国家は偶然の歴史的条件から無関係に発生した産物である。民族のない国家がある。(ハプスブルク帝国、ソ連)国家に祝福されないで生じた民族がある。(分離独立運動)
・だが、ナショナリズムの問題は国家のない社会には起こらない。分離独立運動によってナショナリズムが発生して民族が誕生するのは、国家の中で支配されていると表象する集団が、同化されたくないという要求を根拠にする。
・産業社会では、均質な労働力に基づいた流動性が要求される。その労働力を担保するための教育は個別資本にて行うことができないので、国家が必要である。よって、産業社会である限り国家は消滅しない。
・だから、ナショナリズムの根本原因である国家を廃棄することは、理論上は可能であっても現実的には眼の見える将来で起こることは考えられない。

(Question)
PRCは、民族のない国家なのであろうか。
形式的に、そうであることを国是としている。
モンゴル族、ウイグル族、チベット族、イ族、ミャオ族は、漢族の反日感情を共有しているのであろうか(フイ族もまたこの感情を共有しているかどうか、今の小田にはわからない)?

(柄谷)
・「ネーションは、互酬的な関係をベースにした『想像の共同体』です。それは、資本制がもたらす階級的な対立や諸矛盾をこえた創造的な共同性をもたらします。」(p192)
・資本によって他人が他人を搾取する新自由主義的地獄絵図が展開される。その社会の対立を想像上で和解させて、敵と味方を峻別して敵に立ち向かう連帯感情を想像上で作り上げるのがナショナリズムであり、ネーションである。ところでナショナリズムは国家がある条件下でしか起こらない(国家とは共同体が共同体を支配するところに発生する。帝国→国民国家)。また資本が略奪に向かわず搾取が合法化されるために国家の法的強制が必要となる。こうして資本-ネーション-国家の環ができあがる。この中で国家は資本を援護するために再分配を行う、あるいはナショナリズムを公的に支援して助長することによって、環を強化しようとする。