« 『国家と神とマルクス』佐藤優 | メイン | 『ヘーゲルの歴史意識』長谷川宏 »

『はじめてのバルト』J.R.フランク(つづき)

(カテゴリ:

自由主義は宗教体験に関心を集中したために、聖書の性格および機能について革新的な提案をしていた。聖書は人間的な書物とされながら、しかもなお初代の信仰共同体における神との出会いを証言するものとして唯一無比のものであるとされた。これらの体験が書き記されたのははるか昔のことで、古代文化の思惟形式に従い、その用語を用いて書かれた。しかし今日でも多種多様な社会に対して語りかけている。それは聖書が万人に場所と文化を超えて人間に共通のものであり続けているからである。(p48-49)

この考えに従えば、結局のところ、聖書と聖書のメッセージを飼い馴らし手懐ける事になるだけでなく、聖書が証する神をも飼い馴らし手懐けることになるとバルトは考えるようになった。(p49)

上の自由主義神学は、20世紀の日本人論語解釈者の視線である。
日本人は伊藤仁斎以降、朱子の解釈を永遠無謬の聖典であるとみなす、李氏朝鮮由来の解釈を放棄した。

仁斎-時代の現実に引き付けて論孟を「いま、ここの倫理書」として読み解く-自由主義神学
徂徠-朱子学の解釈を近代人の解釈として斥け、古代テキストそのものに記された古代人の理解をそのままに辿ろうとした、ゆえに倫理は捨てられ、統治術だけが残った-自由主義を批判する視線はバルトと共通でありながら、両者の結論は全く違う。

ヘーゲル、デリダ-時間の推移によって、差異があることを認める。ただヘーゲルはそれを総合しようとして、デリダは総合は不遜であると言う。
日本の思想は、空間的配置によって、同時間に差異があることを認める思想ではないか?敵と味方とが対立していがみ合いながら、奇妙にも連帯して認め合っている。尊氏と正成。