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『ヘーゲルの歴史意識』長谷川宏

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すでに『イエスの生涯』が、聖書に拠った純粋歴史記述という体裁のもとに、イエスのことばや行為を一貫して道徳主義的に解釈しようとするもの、見かたをかえていえば、聖書の記述のなかから道徳宗教の唱道者にふさわしい箇所だけを選び抜いて編集したものにほかならなかったが、、(p55)

初期ヘーゲルは、イエスを模範的聖人として造形しようとしていた。

ヘーゲルは、イエスの道徳宗教が実定的なキリスト教へと変質していく要因として、十二使徒の非主体性という心理的要因と(孔子教団のとりわけ若い世代の孔子を超人として崇める非主体性と)、初期キリスト教団の緊密な共同性がキリスト教の社会的普及に伴って形骸化されていくという組織的要因と(諸子百家時代の論争に生き残るという要請によりかたくなにドグマを強弁して教団の思想統制をはかる孟子のスタイルが強化されていったという組織的要因と)、キリスト教を受け入れるさいのローマ帝国の頽廃状況(儒教を受け入れるさいの漢帝国が要求した鎮護国家・国権強化というテーマに媚びた思想頽廃状況)という社会的要因の三つをかぞえあげていた。(p58、カッコ内は挿入)

「ヘーゲルは自己の近代的な国家観が現実のドイツ国家の近代化にかさなりあうという幸福な時期をたしかにもつことができたのである。」(p93)

自らが生きている時代に自らの思想を依存させて、希望的観測を行うことは果たして思想家としてよいことであるか。

「だが、知識人たちの異質の文化的伝統にたいする憧憬は、民衆の文化意識をしりぞけるようにして成立することがほとんどで、そこからは、時代全体がある異質の伝統文化を憧憬するといった気風は、やはりうまれにくいといわねばならないだろう。それに外来文化にたいする知的な劣等感が憧憬にぬきがたくしみわたっているかぎりでは、憧憬もゆったりとすなおでふくよかなものになりにくく、どこか狭量でケン介な面を捨てきれない。思うに。憧憬と劣等意識は、表面的には対をなす概念のようにも見えるけれども、そのじつ、たがいに相容れない概念なのかもしれない。」(p153-154)

現代でも、西洋への憧憬は、劣等感と表裏一体のままである。すなおによしとすることができない。
幕末への憧憬を持つ人が、結構いる。その憧憬には、たぶん劣等感はない。しかしながら体系がないので、竜馬や西郷のどんな思想が好きなのか、と聞かれたら、支離滅裂な意見が百出するより他はなく、そしてそれを聞いてもちっとも同感できないであろう。
長谷川氏のこの書は、1974年に書かれた。
この時代は宮崎、貝塚、吉川など中国研究の大家たちが、まだ健在な時代であった。彼らの中国への憧憬は、異文化への憧憬の視点に近く、ゆえに江戸時代の儒者と連続しているように思われる。偉大な文明で、そして日本とは明らかに違う世界。しかしながら、彼らが開拓した新聞読みの論語の世界からは、日本人にも共通することが多い東アジア知識人階層のインターナショナルな典型像が表れ出たのではないだろうか?現在、中国はすでに憧憬の世界でも憐憫の世界でもなく、物質主義が蔓延した帝国主義国家として現れている。中国への夢がすっかり覚めた現在、論語はひるがえって異世界の書としてではなくて、日本人の書として読むことができる段階に来ていないだろうか?