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『近世日本政治思想における「自然」と「作為」』丸山真男

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(岩波、丸山真男集で読む)

「自然法的基礎づけは社会への安定化へと作用すると共に、社会のある程度の安定性を前提としているのである。その場合(朱子学の場合の如く)自然法が即自然法則とされようと、仁斎の様にその規範性が意識されていようと変わりはない。」(p18)

1941年の著作である。そこには、目の前の秩序が日本の自然的秩序(のはず)である、と言わんとする国粋主義イデオロギーへの搦め手からの対決姿勢が見て取れる。この社会は自然的秩序なのではなく人為的な作為であり、合理的に変革されるべきである。


「徳川封建社会の成立と共に、朱子学がいわば代表的な政治的=社会的思惟様式たる地位を占めた所以は、そこに含まれた自然的秩序観が勃興期封建社会に適合したばかりでなく、それがとくに勃興期封建社会に適合したことに由来するのである。身分関係が整然と確立し、すべての生活様式がその線に沿って類型化された点で世界史上にも『模範的』な我国近世封建社会の下に於いて、社会関係を自然必然的な所与と見る意識形態がいかに普遍化する素地をもっているかは容易に推測しうる。」(p39)

しかしむしろ、そのような模範的な封建社会を自然的有機物と見る意識が、どうしてわずか1世紀足らずで崩壊していったのかということの方が問題ではなかろうか。中国でも、宋代、明代後期、清代中期は商工業の隆盛時代であり、士大夫-小人の身分関係は金銭の力により相対化されていったのではないだろうか。だが彼方では1000年近く崩壊せず、日本ではわずか100年で崩壊した。これは、日本にとって朱子学があくまでの輸入の学問にすぎず、日本の真実を正確に描写していない、ゆえに適宜改変して解釈を変えてよい、という日本の特異な文化受容の態度に由来するのではないか。朝鮮では朱子学が500年間動揺せず存続し、日本では朱子学者であるはずの山崎闇斎が垂加神道という朱子学から外れた挟雑物をあっさり創始してしまうのである。

(追加)
小倉紀蔵「朱子学化する日本近代」は丸山氏の主張を批判して、日本江戸時代は朱子学の原理が十分に社会的に浸透していなかった、それが浸透したのはむしろイデオロギーとしては儒学を捨てた明治以降の近代日本であった、と反論する。朱子学の要点である個の自由と自ら善をなす主体性の論理は、近代日本がテイクオフするときに市民(=臣民)を創生するときにこそ、原理として日本人の血肉となったと小倉氏は主張するのである。
では、近代日本と中国朝鮮は同じく朱子学を原理としたにも関わらず、どうして差がついたのか?小倉氏の説明は、この点で不十分であるように見える。
私は、ここで柄谷氏の指摘を援用するべきであると思う。
すなわち中国・朝鮮は世界史の「世界-帝国」段階における中心および周辺である。中心と周辺は収奪・再分配システムBが強固に結成された領域であり、社会的に安定である。一方日本は「世界-帝国」の亜周辺に属し、中心から遠かったゆえに収奪・再分配システムBが完全に輸入されなかった。それが互酬原理Aによる武士共同体を江戸時代に残存させ、かたや中央権力が統制できないシステムの隙間が多く発生して、商品経済が勃興した。柄谷氏の視点を借りれば西洋の絶対王政および日本の明治維新国家は亜周辺地域が「世界-帝国」の収奪・再分配システムを遅ればせながら採用して中央集権国家を成立させた時期と解釈できる。このときに、中央集権国家に適合的な朱子学原理が、当人たちの気づかないままに本格的に浸透したという小倉氏の主張は、妥当性を持つであろう。しかしながら西洋の絶対王政・日本の明治維新国家が「世界-帝国」段階の帝国と違っている点は、後者が支配する社会が互酬原理Aによる農村社会であるのに対して、前者が支配する社会が支配する社会が商品交換Cが貫徹する市民社会であるところにあった。商品交換Cは産業資本のオートポイエーシスによって自立的拡大再生産運動を起こして共同体を連続的に破壊し続け、それを支配する国家は法・公教育・貨幣・再分配によって商品経済Cが運動する条件を下支えする。こうして、資本-国家-ネーションの環が近代西洋と近代日本で完成して、「世界-帝国」段階での中心(中国、イスラムなど)、周辺(朝鮮、バルカン諸国など)では成し得なかった経済の自律的拡大を成し遂げることとなった。


「(中世政治家が神の法によって与えられた、政治的)義務を冒し、この職分を逸脱した支配は正統性を喪失して単なる暴力と化する。ここから中世思想は暴君に対する人民の反抗権を、いなある場合には進んで支配者の殺害権をも引き出したのである。」(p44)
Gierke, "Genossenschaftsrecht"を参照。

この指摘は、面白い。孔子・孟子が君主を糾弾するのは、自然法に照らし合わせたときに見える社会の一職業としての君主の職分を逸脱したときではなかろうか。とりわけ孔子は、自然法として礼儀を見る視点があったため、礼儀からの逸脱を糾弾することに急であった。
戦国後期になると自然法的視点が消滅し、社会は君主の恣意によっていかようにも目的合理的に再編成できる素材として表れるようになった。荀子はそこから人間の究極理想である「道」に従って礼を制定し、社会を再編成せよと君主に説いた。韓非子はさらに一歩進んで、究極理想までを不問に処して、ただひたすら国家強化を目標に据えてその手段として法で社会を強力に再編成せよ、と君主に薦めた。

〈問題〉徂徠は、江戸期封建秩序を、家康が時代に応じて制定した人工物と見ていたのか。時代が変化すれば、別の体制がふさわしいと見ていたのであろうか。

「朱子学はそこに内在する於プティ見スティックな思惟方法によって、前述の如く(第一章)勃興期乃至安定期に照応した思想体系であった。」(p90)

政治体制、家庭秩序は本来的には理に従う。だから、これをよく整えれば家も国も栄えるのである。ドラスティックな政治改革を必要としない。豪腕の君主によるイニシアティブは、朱子学では斥けられている。朱子学の理想の君主像は、道徳にひたすら従う、受動的な君主である。これは、孔子孟子が当世の君主たちの功績を積極的に認めなかった視点と平仄を合わせている。