« 『近世日本政治思想における「自然」と「作為」』丸山真男 | メイン | 『〈近代の超克〉論』広松渉(つづき) »

『〈近代の超克〉論』広松渉

(カテゴリ:

岩波、広松渉著作集で読む。

「戦後の”常識”として、戦時中には資本主義批判はタブーであったと言われるとき、それは「科学的社会主義」の立場からする資本主義批判を指すものでなければならない。しかるに、戦後世代の常識では、いつのまにか戦時中の日本には自称”資本主義批判”ですら、一切が圧殺されていたかのごとき既成観念が根付いており、昭和思想史に関する”事実”誤認が定着してしまっている。こういう常識に安住していたのでは、いわゆる「日本的ファシズム思想」に対して無防備となり、一旦時潮が変われば、戦前・戦時の「近代超克論」の変種や粧いを変えたファシズムに易々と罹患しかねない。」(p68)

このくだりは、私にとって多少驚きである。
岸信介総理の来歴や、戦前右翼の主張、北一輝のイデオロギーの内容を知っていれば、戦前戦中の体制が反資本主義とはいわなくても少なくとも資本主義の弊害を除去しようとする修正資本主義を志向していたことは、容易に看破できる。このことが戦後の一般通念においては一方的に無視されていた、ということである。ファシズムは国家暴力による再分配を目指した運動であり、弱者に「やさしい」。この事実を、戦後の通念は意図的に無視していたのであった。

三木清『新日本の思想原理』『続編-協同主義の哲学的基礎』
昭和研究会の公式文書。
その中では、日中戦争を「支那の近代化」に必要な措置であり、それを東亜の統一の前提に置いて合理化している。東亜全体の近代化を通じた、反西洋ブロックの育成というビジョンを提出した。
もし中国が日本侵略を将来画策するとするならば、どのようなイデオロギーにて合理化するか。
中国は、日本その他の周辺諸国に対して、近代を輸出することはできない。ナポレオン・三木清式イデオロギーは不可能。
・中華思想ロマンティシズム--中華の版図は東アジアを組み込むのが文明的帰結である。同種・同文・同国家。(だが彼らは、あまり観念に酔いそうにない。)
・弱肉強食マキャベリズム--自国が勝つためには、隣国を併合することも許される。(だが、彼らはニヒリズムに親近感がありそうにない。)
可能性があるとしたら、グローバル資本主義に反対する何らかの世界的運動を自ら起こすか、あるいは便乗することであろうか。第二の文化大革命?

「昭和の初年には日米戦争の将来的不可避性ということが絶対確実な既定の事実として人々に認識されていた、、、日本の敗退を認めたがらない心情があった以上は、恒久世界平和を確立し、全世界の安寧と秩序を確保するためには日本が戦争に勝ち抜き、最終戦に勝ち残ることが絶対の要件として意識される。」(p119)
現代中国の庶民には、このような意識はない。ゆえに、かの国の軍隊は侵略を国民の支援のもとに行える状態にない。だから、自国防衛という大義名分をもっぱら振り回すのである。

「戦争の二重性格」
西洋化近代化の果てに行き着いた、帝国主義侵略
西洋に対抗する旗手としての、東洋共同体の建設

「京都学派の歴史哲学、とりわけ高山氏の場合には、いわばヘーゲルの歴史哲学を想わせる仕方で「歴史の理性」の自己実現というシェーマが立てられており、過去の歴史的事件は当の歴史的理念を実現するための手段的な一階梯として位置づけられ、解釈されるむきがある。」(p131)
日本の最終使命として反西洋の一極を世界に形成することがある以上、これまでの全ての侵略併合は、それを成し遂げるための過程であった、、、
敗戦によりそのような使命が世界史の目的でなかったことが証明された結果、日本は
*一国民国家として、国連の指揮下に位置を得る(独立派)
*敗者として、勝者の西側の一員となる(事大派)
いずれかを取るべきであるという論理となるが、当の日本人がよく整理できていないように見える。

「”ヨーロッパ思想の最高峰”と認めてきた共産主義からの自覚的・半自覚的な転向がおこなわれる場合、、、東洋的な或るものに向かうことが蓋然的であり、、、」(p143)

知識人が最先端と信じた思想から目をそむけるとき、最先端の序列を作っている西洋思想には戻れない。非合理なオルタナティブを選ぶのだ。

「西欧文明の底を見定めてしまったという自負というよりもむしろ寂寞の念を伴う安堵感のごときものがそこには在り、「見てしまった者の哀感」が漂っている。」(p147)
小林秀雄たちは欧州しか見ていなかったから、寂寞感があった。そして、それは戦後欧州文明の完全な凋落を見たとき、さすがに先見の明というべきであった。
新しい力は、アメリカの大衆文明であった。それを小林氏たち戦前のインテリは、評価しようとしなかった。彼らの教養上、評価してはいけなかったのだ。
21世紀の現在、アメリカの大衆文明もまた、日本人は底をとっくに見定めており、寂寞感に捉われているように見える。すでに、日本の大衆文化のほうが多くの点で先進的なのである。大衆文化の点では、日本人はすでに世界全体を見下しており、しかも見下す十分な理由がある。