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『〈近代の超克〉論』広松渉(つづき)

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論者たちは「近代の超克」というモチーフがそもそも西洋出自のものであることを指摘し、斯様な西洋的概念を用いて西洋的近代の超克を説くことそれ自身がナンセンスであるかのように評する。だが「近代の超克」という課題がグローバルなものであるとすれば、すなわち、近代の超克ということが特殊西洋だけの課題ではなく世界史的な課題であるとすれば、問題の提起がどこで最初におこなわれたかということは副次的な事柄にすにない筈である。論者たちは、近代の超克は西洋に委ね、日本では全然別の事を専らとせよと説く心算であるのか。成程、論者たちは、日本はまだ克服さるべき近代をまだ実現しておらず、当面の課題は近代化の実現であると言いたいのかもしれない。しかし、世界史の時代に生きるわれわれにあっては、”西欧における近代の超克”と”近代化以前の地域における近代化の課題”とが、有機的に関連づけられた相でしか存立しえない道理ではないのか。現に、京都学派の世界史の哲学においては、支那その他東洋の近代化という課題と欧米や日本における近代の超克という課題がそれなりの仕方で結合されていた。」(p159-160)

講座派--日本はまだ近代化していない。
そこから、近代化=西洋化するのが課題であるという近代化派と、
日本の前近代的な独自性がユニークな資本主義を形成している、という前近代的要素肯定派に分かれる。
姜尚中氏などは、丸山真男の影響を受けて、明らかに近代化派である。

労農派--日本の現象は世界システムの中で考えるべきであり、近代化している・していないという視点で考えることは意味がない。

Non-indigenous Japanese にとって理想の日本像は、二通りある。一つは近代化路線であり、日本にアメリカ・西欧と同じ原理の国になってもらうことを願う。意地の悪い見方をすれば、彼らは周辺諸国がアメリカ・西欧的な意味で近代化に届いていないことを認めているので、日本に期待して要求しているのである。
もう一つは、その逆。日本はアメリカ・西欧の後追いなどする必要はない、今の(戦後日本の)段階で十分に寛容で住み良い国であり、この路線に何も引け目を感じることはない。もし日本を非難する外国があるならば、堂々と立ち向かうべきである。在日の方々には、あからさまにそれを表明する人もたまにいる。しかし、本音ではそう思っている人も、もっといるのかもしれない。