« 『はじめてのバルト』J.R.フランク | メイン | 『はじめてのバルト』J.R.フランク(つづき) »

『国家と神とマルクス』佐藤優

(カテゴリ:

「それは、死ぬ前に自分の人生を振り返ることを考えたんです。私は私なりに日本の国のために仕事をした、状況によっては命を失ってもいい覚悟でやってきた。それを一回くらい政争の中のくだらない足の引き合いや外務官僚の自己保身に巻き込まれただけで恨みを持って、今度は反体制に転換したとする。じゃあ、その前半の私の人生はまったく意味のない人生だったんだろうか、そうじゃないはずだということで、反体制の論理は私の趣味には合わないと思ったんです。」(p36)

佐藤氏は、
人生倫理-キリスト教神学
世界把握ーマルクス
を武器としている。
あと、
日本観-神皇正統記
であろうか?
佐藤氏は、靖国神社で英霊を感じて手を合わせるという。これは、信仰的態度である。他者が肯定もできないし、批判しても意味がない。

「私が本稿で予測した通り、堀江氏は市場原理主義者であるとともに共和制論者である。」(p69)
佐藤氏は、堀江氏の逮捕劇は、彼が選挙中で天皇制廃止・大統領共和制を示唆したところにあったという。大統領共和制は、彼の本来的持論である市場原理主義と対である。要は、日本という共同体など何ら特殊的でなく、外国と取替えができる場であり、そうするべきだという信念なのである。日本の生理がこれを危険と見て、一掃したのであった。

佐藤氏は、神皇正統記や太平記が禁圧されずに流布を許されたところに、日本国家が持つ強さを見ていると見える。幕末、佐幕側の敗者たちがわずか数年のうちに許されて日本国家に吸収された、構造も同じであるといえよう。戦前のマルクシストは官憲から徹底的に追い詰められたが、彼らはかえって意気軒昂として、世界レベルで見ても高水準の研究を行った。日本の研究的知性は、1930年代に一挙に上昇し、その余韻をもって昭和時代高水準であり、平成時代になってようやく衰えているように見える。これを、国家があえて研究者たちを追い込んだことによって発奮させた、日本国家理性の巧智であったと言うのはいいすぎであろうか?