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『ダホメと奴隷貿易』K.ポランニー(つづき2)

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-ダホメ王国の国家的レベルで行われる経済の再配分的形態には、、、たくさんの枝葉がある。しかし、日々の生活は、隣人とか、親族とか、信仰といった、地方的な、国家とはかかわらない慣習の中に埋め込まれている。(p83)

国家は、徴税と徴兵のための統計を司り、その統計は非常に精妙であった。国家は、全国統一の徴税率、売買価格の宣言を担当し、公正さの起源として住民から尊重された。国民は自発的に国家の支配に協力することを求められ、事後的な監察によって奉仕義務を怠ったことが判明すれば、村落の長は死罪となった。

このシステムは、日本の江戸時代と一点を除いて同様であった。違う点は、江戸幕府は始終米相場に財政を振り回されていたところにある。江戸幕府はこの一点に関しては市場の無軌道な力を寛容に認め、他を非市場システムで管理して安定と活力のバランスを取った社会であった、と評価できないだろうか。
明治時代においても、それが市場経済・資本主義を発展の源泉として強固に支持したにもかかわらず、江戸時代の市場・非市場システムの混合形態を貫徹しようとした。そして、それは相当程度成功した。明治政府は、徴税・徴兵において非市場システムを使って徴収して、国民の自発的服属をおおむね勝ち取った。それが、大正時代以降に資本の力が無軌道となって、非市場システムに大きく依存していた明治国家の癌として増殖したために、国粋主義者の強烈な反発を招き、右翼集団の暴戻として結果した。


夏殷周三代として儒家に賛美された古代中国においても、同様に精妙な徴税・徴兵システムが存在していた可能性がある。少なくとも殷代には、相当に完成した徴税・徴兵システムがあって、それが首都に大規模な金属器工房の運営を可能としたのではないか。ただし、王権が入ることができるのは邑の門の前までであり、そこから先は全く邑の父老の自治であっただろう。孟子の井田法のような上からの村落管理制度が村内にあったとすれば、それはわが国の均田制のように新規入植の村落を創設する時期においてであろう。そのような開墾が周代にあったかどうか、よく分からない。始皇帝と王莽は、既存の農村共同体に対して上から人工的な制度を押し付けるという、誤りを犯した。ゆえに、短期間で崩壊したのであろう。

古代社会において、互酬性は、村落構成員同士の間はもちろんのこと、国家と人民の間ですら、(再分配という形であるが)要求されるべきものであったに違いない。
なんで、詩経の中に、国家への怨嗟の声が入っているのか?
それは、国家が人民に再分配の義務を果たしていないことを、告発しているのである。

国家が再分配の義務を果たさない理由
1 対外戦争・対外債務支払。村落の許容範囲を超えた徴税・徴兵が必要となる。
2 その対外戦争が恒常化する時代、自国の常なる富国強兵化が必要となる。
3 市場経済の浸透。外国の要素がない場合においても、村落の犠牲のもとでシステム維持のための税収の増加が必要となる。
4 社会改造計画。上からイデオロギーを押し付ける官僚の意図が暴走する。

1は、隋、北条幕府の滅亡の原因。おそらく殷が滅亡した原因でもある。昭和日本の敗戦もこれに当る。明治日本。清代中国。ワイマール時代のドイツ。
2は、中国春秋戦国時代。80年代ソ連、現代の北朝鮮もこれに当る。
3は、享保以降の江戸幕府。
4は、コミュニズム全般。始皇帝、王莽。

-それにしても、人間の価値体系における、なんと底知れない対照であることか。シブ組織はまた熱烈に祖先の信仰を行う血縁的集団であり、それは国民的な宗教行事の紀律においてなおざりにされた死者の精霊や幽霊を世話することから生じるものである。君主制はこれらとまったく同じ価値を持っている。しかしながら、シブ組織のもつ家内的、人間的雰囲気は、厳格に遵守されている祖先崇拝の戒律と結ばれた国家的理由で正当化された、君主の怖るべき規模での残酷な拷問に見せる放縦さとは、まったく異なったものである。(p100)

論語の世界は、天下国家の観念から遠い、家族経済、互酬社会の世界に留まっている。
孟子になると、これらの世界は遠景に遠のき、国家による社会再編のテーマが前面に出てくる。
孟子にとって、国家による社会再編のテーマと、互酬の原理とは、グロテスクに接合されている。

井田法の記録は、実は周王朝が保有する戦争奴隷を働かせた、奴隷農園の組織ではなかったか。そして、このような計画的農園は、戦国時代当時灌漑により積極的に作られていた新田において、普通に見られた区割り図であり、ゆえに孟子にとって違和感無く印象されたのではないか。(わが戦後の八郎潟を見よ。同質の農地ではないか。)
いっぽう、詩経に記録された王と農民との互酬的関係は、自然的自作農村と王朝との関係を表した作品ではなかったか。
孟子は、戦国時代の法家的官僚社会による国家改造を理想化するために、本来異なる原理の農村の描写であった井田法と詩経の世界を混同して、同じ農村を描写したものであるとみなしたのではあるまいか。コルホーズや人民公社での生活が地上の楽園であるというプロパガンダ作品が、どれだけ作られたことか。そして、それが国家管理下の地獄絵図の実態からいかに外れたイデオロギーであったか!