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『世界史の構造』再読

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いま、仲正昌樹『ポスト・モダンの左旋回』による柄谷批判を通り、ポランニー『ダホメと奴隷貿易』を一とおり読んだ後、もう一度柄谷の本書に戻ろうと思う。

「二〇〇一年にいたるまで、私は根本的に文学批評家であり、マルクスやカントをテクストとして読んでいたのである。」(序文)

これは、仲正氏の批判を受けて、自らあえてマルクスと同じい理論の提唱者たらんとする、決意ではないだろうか。柄谷氏は、もはや人生の最終期に差し掛かっている。その彼が、時代に直面して最後に自らの理論を立てて後世の批判を待つ、という姿勢に立っている、と私は解釈したい。

「未開社会における再分配と、国家による再分配とは異質である。」(p10)

ここで柄谷は、ダホメで見られるような首長と臣民との間に相互義務があるような国家の「再分配」と、支配-被支配関係が根底にあって最初に略取がある、(柄谷の用語に即した)国家の「再分配」とを区別する。それは、国家が暴力装置であるという定義を置くためである。柄谷がポランニーを批判するのは、ダホメ王国が首長と臣民との相互義務という小共同体の原理で動いているのに巨大な国家システムを打ち立てたその原因を、近代奴隷貿易による富の流入という外部的要因に見出そうとしていると思われる。つまり柄谷には、近代以前の歴史的な国家は、すでに互酬原理とは無縁な、根源に略取がある暴力装置である、という視点があると思われる。

柄谷氏は、交換様式Dを、歴史的時代を蔽い尽くす交換様式B(前近代身分社会)およびC(近代資本制社会)の桎梏を越えた、互酬原理のゲリラ的復活、として位置づける。

前近代身分社会における交換様式D・・身分制の桎梏を突き抜けた、人間が対等の関係を結ぶべきであるという原理
近代資本制社会における交換様式D・・商品交換の制約を突き抜けた、人間関係の原理?

家族でもない他人が、国家の指示も、貨幣取引にもよらず、アソシエーションを作ることが、、、できるか?卑近なたとえでいえば、出世払いではまだ足りず、貧しい仲間がいればアソシエーション全員で助け合うような組織、しかも会った事もないような相手を援助する組織を想定しなければなるまい。なるほど確かに、これは歴史的に見れば、宗教団体でなければならない。

柄谷氏ら全共闘参加者たちが求めて挫折した、理想のアソシエーション。確かに全共闘には、千年王国的な宗教性があった。
それが敗れた後、資本側とアンチ資本側とが互いに鏡のように求めていた主体性から逃走することを、柄谷氏も80年代まで薦めていたはずだ。それを今になって再び全共闘の理想まがいのことを再び言い出したので、仲正氏の批判することとなった。
だが柄谷氏も、自らが言っている交換様式Dが宗教的でなければならず、ゆえにそれは構造の指摘者である柄谷氏が具体的に言い出せるものではない、柄谷氏の力では何も作り出せない「X」であることを、自覚していることであろう。