こうして明らかなのは、どの交換様式からもそれに固有の権力が生じつということ、、、である。、、、以上三つの力のほかに、第四の力を付け加えなければならない。それは交換様式Dに対応するものである。私の考えでは、それが最初に出現したのは、普遍宗教においてであり、いわば「神の力」としてである。、、、交換様式Dは、人間の願望や自由意志によるよりもむしろ、それらを越えた至上命令としてあらわれるのである。」(p22)
柄谷氏は、現在の世界史の構造を作っている交換様式A・B・Cを越える力は、自由意志で選択できない力である、と明言する。ここに、主体的運動は不可能を宣言される。歴史を動かす成果は、何かに取り憑かれた結果として、予測不可能な着地点に向かう。今、我々は何かをなさねばならないし、自分の行った結果として何かが成し遂げられるかもしれないが、その領域はもはや不可知である。それはデリダ氏の死去直前の決意と並行しているのであるが、それはまた晩年のチェーホフとも並行している。チェーホフは、そこで絶望すれすれのユーモアの境地に至ったが。
ウォーラーステイン、チェース=ダンの「世界システム」
・ミニシステム:国家が存在しない世界
・単一の国家によって管理されている状態:世界=帝国
・多数の国家が競合している状態:世界=経済
ウィットフォーゲル「中心・周辺・亜周辺」
主君と家臣の双務(互酬)的契約関係は、古代中国に現実に存在したか?
孟子は、明確にそのような関係が存在している、と主張していた。
周王朝は、王権が弱く、同姓諸侯が本質的には対等の権利関係で割拠する、という意味で、封建制度であった。これは、おそらく中央集権的な殷帝国の軍事的崩壊によって出来た権力の空白を、互酬的原理を強く残した辺境の蛮族周が支配したところから、生まれたのであろう。後世の(もっと規模が大きいが)モンゴルウルスと、類比できる。よって、封建制度のタガが緩んだとき、分裂した春秋時代となった。このとき諸侯の権力は、相対的に大きくなかった。なので、諸侯の家内奴隷であった士大夫の自由度が増して、下克上の世となった。そこから、互酬的関係が-法的には存在しなかったとはいえ-倫理的に正義である、という孔子一門の主張が、一時的に勢力を得たのではないか。それが力を持つことができたのは、戦国期に中央集権国家が再び台頭するまでの期間に過ぎなかった。戦国期以降の中国社会は、アジア的専制国家である。西洋では世界=帝国のタガが緩んだ痕跡は世界宗教に残ったが、中国社会では儒教に伏在して残り、後世朱子学によって-専制帝国と和合する形で-ある程度復興された。