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『ダホメと奴隷貿易』K.ポランニー(つづき)

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-非国家レベルでは、家族的、地方的生活圏、すなわち互酬性と家族経済が支配的形態であった。市場システムがないために、交換は、労働、土地に及ばず、副次的なものにすぎなかったし、商品市場さえ孤立していて、ひとつのシステムにはならなかったのである。(p53)

再分配+互酬(家族経済)によって、国家は成立できる。春秋時代には、交換手段としての貨幣が果たして存在していたのか、疑問である。『論語』には、税収としての穀物、贈答品としての「束脩」が表れるが、これらは再分配および互酬で動く財貨であって、まだ貨幣ではない。

孟子になると、明確に市場経済に言及される。(壟断の故事)
考古学的にも、地域通貨が出土する。
子貢や陶朱公などの伝説的富豪は、春秋戦国の移行期の人物である。
すると、子貢の富は、どこから由来したのであろうか?
考えられるのは贈答・支払手段であった黄金が、国家間取引に使われることによって商人資本に転化することが始まったのであろうか。つまり、支払手段から交換手段への過度期に子貢はいた。おそらく、そのような商人資本的行動は、貴族階層にとっては外交的周遊の際に役得として行われていたことであろう。それを賤民である子貢がそれを行ったというのは、孔子の周遊の結果であった。

戦国期にはさらに土地が商品化されて、土地への投資による富の永続的蓄積が富豪によって始まったと思われる。孟嘗君の故事。

-しかし、全国にわたるセンサスが、そんなに細かく行政的に困難なところまで含んでいる主要な理由は、喜んで法に従い、命令に自発的にこたえる国民の参加があったことだった。(p62)

古代社会でも、国民の自発的参加があれば、精緻な行政を行うことができる。
そのためには、祭り、再分配を通じた王と国民のコミュニティーの一体感が必要であったろう。
気になるのは、詩経に歌われた歌の中には、君主と庶民の一体感を歌ったものと、苦役に駆り出される庶民の怨嗟の歌とが、両方収められていることである。
殷古代帝国は、互酬・再分配によって基盤が作られ、中央の大々的な祭によって一体感を持つ王朝であったと思われる。しかし、周辺諸部族の怨嗟を買い、祭儀の規模の絶頂によって崩壊したところは、アズテク帝国と類比できるだろう。
それを継いだ周王国は、前代の集権的システムが崩壊して使い物にならなくなった結果、首都での大々的な祭祀を継続できなくなった。それで、血族を各地に小酋長として派遣し、ゆるやかな血族連合を取る「封建制」となった。殷周革命の結果文明システムが混乱しコミュニケーションが低調となった結果、それらが回復するまでの間は「封建制」が機能した。しかし、中華世界のコミュニケーション能力が回復する時期となって、「封建制」システムは統御力を失い、春秋時代に以降するようになった。