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天懲

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今、ちょっとした間違いを犯してしまって、毎日が苦痛である。
こんなとき、どうするだろうか。
TwitterとかFacebookとかでとりあえず愚痴をわめき散らして、例え少数でもよいから仲間たちに同情の言葉をかけてもらい、後はさっさと今の状況から逃げる手立てを考える。職場ならば、辞める。私のように住居ならば、できるだけ安くなる手段で転居する。

正直、そうしたいという欲望が、私にもある。生きていると、天が自分を罰しているかのように、こんなはずじゃなかったと後悔する状況に追い込まれることは、誰でも必ずあるはずだ。賢しらな者は、事前にリスクを計算して慎重に判断しないから悪い、彼を知り己を知る算段をしないのが悪い、と一笑に付すであろう。
しかし、それを言ってはいけないのではないか。
天が罰するかのように、思惑違いの苦しみを受けることは、むしろ人生であるに決まっていると考えるべきではないか。
だから、今どきならばネット上で愚痴を言って慰めてもらうのは、精神衛生上健康を保つためなのだ。私は、そう思う。

だが、引っかかるものがある。

逆境は、奮起してより高いものを目指すチャンスである、という昔からの君子への教えがある。
愚痴を言って逃げることばかり考えていたら、奮起する機会は得られないのではないか。
今や、組織に頼って生きてはいけない時代であり、逆境に陥ったとしたらそれは「天懲」(小田の造語)であり、自ら君子として自立する力を積むための期間ではないか、と思うことも、大事なのではないか。

この考えが広まったならば、多くの人が立ち上がるはずではないか。思うようにいかない逆境などは、TwitterやFacebookを見れば、多くの人に常に常にふりかかるものであるから。

*誰にでも開かれているが、誰でも取り上げることはしない思想。今の日本に心あるエリートを育てるためには、そんな思想が必要。
*逆境に陥ったとき、それが宗教の救いに目覚めるチャンスである。儒教の優れているところは、しかしながら、逆境に陥ったときに自分が社会的存在であり、家族と地域と仲間と国家のために貢献する力を蓄えるチャンスである、という天吏の自覚に目覚めるチャンスであるところではないか?