キリスト教は、それを神であると言う。
親鸞は、弥陀のはからいであると言う。
これが、人間が人生で常に出会う、人間の力ではどうにもならぬ、異質な出来事への態度である。
病気になったとき、理不尽ないじめに会ったとき、不本意な就職をしたとき、犯罪や震災に巻き込まれたとき、そもそも悪い時代に生まれてしまったとき。
孔子が、不利なときは逃げるのもありだと説くのは、そのような異質なものと出会ったときには「天命」であるとして、怨むことなく楽観的に心を腐らせずに生きよ、と言うのではないか。
司馬遷が不条理な罰を受けたとき、彼は漢帝国に自分を捧げる身であると心で慰めただろうか?
そのようなナショナリスティックな陶酔は、古代に成立しえないだろう。