p108以降、古代中国の考察が入る。重要。
(古代ギリシャとの類推)
殷王朝-ミケーネ帝国(?)
完備した専制帝国
文王・武王による侵略-北方蛮族の侵入
より文化が低く、同時により氏族制原理を保って自由・平等な原理を持った蛮族の侵入により、先行する帝国が崩壊する。それと共に、統治術や物質文明のテクノロジーが失われた。ギリシャではこれを暗黒時代と称し、中国では戦争が無かった黄金時代と表象した。
春秋時代-都市国家時代
前代からの自由・平等の原理がかなりの程度保たれながら、文化が復興する。都市国家間の抗争が活発になり、工芸が発達する。従来の氏族社会の統治術が次第に有効性を失い始める。それに応じて、新しい統治術が模索され、思想家が生まれる。ギリシャではこれを黄金時代と表象され、中国では戦争が続いた暗黒時代と表象された。
戦国時代-マケドニア世界帝国
氏族社会がすたれ、官吏と常備軍を備えた専制国家が復活する。それとともに君主による支配・恩恵と臣民の服従・奉仕の体制が整う。この時代に、国家に背を向ける思想としてギリシャ世界ではストア派、中国では老荘思想(儒教にもかなりこの傾向があることは、論語微子篇から明らかである)が勃興する。
ギリシャ・ローマは、オリエントの専制帝国を版図に加えてこれを統治する必要性から、氏族社会から専制帝国へと脱皮した。古代中国であるが、最初に法治を開始したのは中原地方諸国であった。鄭の子産が春秋末期に始めて成文法を使用し、戦国時代初期の魏が法治を大々的に採用し、韓の思想家たちがそれを理論化した。これらのことが、従来の氏族社会の抵抗なしに起こったとは、思えない。ここで、国家は他の国家の存在によって成立する、という柄谷氏のテーゼを応用する。戦国時代の官僚制・常備軍は、オリエント専制帝国の影響をおそらく強く受けたと思われる秦王国が法治と官僚制を採用して強大化したことによって、他の六国もまた防衛措置として反射的に中央集権化していったのではないだろうか。専制帝国の理論は中原から現れたが、それが中国全土で採用せざるをえなくなったのは、秦の影響ではないだろうか。げんに、中央集権制度を楚で成立させようとした呉起は、貴族階層の反撃を受けて殺されている。
「ギリシアのポリスで官僚制がまったく発達しなかったことはその一例である。ローマでは、私人に租税徴収を請け負わせた。ゆえに、人がすすんで官僚になることはない、と考えなければならない。」(p118)
孔子は、弟子たちに士になるように薦めた。これは、すすんで朝廷の官となれ、ということであった。だが、論語に出てくる問答の中で出てくる官僚像は、国家の奴隷から遠い。むしろ、君主との対等の立場からの契約関係のように見える。ゆえに孟子は、君臣は「義」であると言った。これは明治政府とは違う。明治政府において、天皇と官は「忠」であり、無条件の服従を要求した。ついでに言うと、明治時代の天皇と官との関係は、江戸時代の君臣関係とも違う。江戸時代の侍たちは、直属の主君にだけ「忠」なのである。それは、腹を切って主君にショックを与えて諫めるといった、ある意味対等な関係であり、氏族社会的である。
孔子や孟子の士は、国家の奴隷である官ではない。ゆえに、荀子はこれを批判し、官は国家の奴隷でなければならず、国家秩序を示す「礼」が絶対であると説いた。後世に至るまで、中国では官場は最後まで忠義を尽くす場ではありえず、暴君が現れたり自分の主張が容れられなくなったりしたら逃げて郷里に隠退するべきであるという処世訓が生き残った。これは、国家の奴隷である官に留めさせようという専制帝国の要求に対する、被統治者側からの消極的抵抗というべきであろう。
「ギリシアで表音文字が採用され発達したのは、官僚機構が未発達であったからだ。」(第2部第3章注4)
春秋時代では、漢字を使うことができる階層が君子であり、仕えない小人と区別されていた。孔子学校は、漢字と礼楽文化体系を教えて官僚を養成する学校であり、その観点からはエジプトの書記学校と同じである。書き文字が存在しないと手形の交付が行われず、言葉の差を越えて厳密な商交渉ができない。したがって、商業は発達できない。国家が統制して役人が監督する市場においてしか、商業は行われないだろう。ならば中国の商業は春秋戦国時代から国家に寄生していたと言えるのであろうか。あるいは子貢の伝説に見られるように、国家の一員でもあり漢字の教養を十分にもった士の階層の者が、時に商業に手を染めて富を得ていたのであろうか。ペルシャ帝国ですら、商業の必要性から自然発生的にアラム語が普及していった。中国では各地が方言に別れ、商業にも使える統一言語がない。ならば、中国の商業は土着的な共同体を騙して富を絞り上げる、略奪的性格が色濃かったのであろうか。
中国の商業は、研究する必要がある。漢文しかない世界で、どうやって宋代や明代後期の商業の発達が可能であったのか。見えないリンガフランカがあったのか。
イオニア-コスモポリタンな文化。寛容、多文化横断的
アテネ-部族社会の文化。排他的、独善的
ソクラテスはアテネから現れたソフィストであった。彼を継いだプラトン・アリストテレスもアテネ人であり、その思想はドメスティックで排他的である。ソクラテスの外国人の弟子、ディオゲネスたちは、コスモポリタンであった。