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『世界史の構造』柄谷行人(つづき4)

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「国家と国家の間に経済的な『不平等』があるかぎり、平和はありえない。永遠平和は、一国内だけでなく多数の国において『交換的正義』が実現されることによってのみ実現される。」(p349)

国家と国家の関係を、個人と個人の関係になぞらえ、互いを手段として用いない互酬性を理想とするならば、上の言葉は自明である。そして、悟性と感性との格差は、あまりにも大きい。

「歴史に目的があるというのは仮象である。が、これがないと、やはり統合失調症になる。結局、人は何らかの目的を貢げずにはいないのである。」(p350)

「超越論的仮象」-理性が生み出す仮象であり、理性がそのような仮象を必要とする。


アダム・スミスは、市場経済においても道徳感情が働く、と言った。カントは、立場を異にして道徳法則は理性的であると言った。ヘーゲルは、ひっきょう社会道徳は国家の内部で体現される、同朋意識であるとまとめてしまった。

p429に、柄谷氏の今後の世界展望。

「こうした帝国間の争いの果てに、新たなヘゲモニー国家が成立するだろうか。これまでの経験からは、『帝国主義的』な状態が六〇年ほどつづき、その後に、新たなヘゲモニー国家が生まれた。だが、今後については、そのような予測はできない。おそらく、今後において、中国やインドが経済的な大国となることは疑いをいれない。そして、それが旧来の経済大国と争うということもまちがいない。しかし、それらが新たなヘゲモニー国家となるかというと、疑わしいのである。第一に、一国がヘゲモニー国家となるには、経済的な優位以外の何かを必要とするからだ。第二に、中国やインドの発展そのものが、世界資本主義の終わりをもたらす可能性があるからだ。」

第一については、アムステルダム、ロンドン、ニューヨークがそれぞれの時代の亡命者の受け入れ先であったところに、ヒントがあると思われる。それら真のヘゲモニー国家の都市と異なり、ヘゲモニーを求めて挑戦したドイツと日本のベルリン・東京は、そのような世界の「アジ-ル」を提供しなかった。おそらく中国、インドも同等の存在にとどまるであろう。

第二については、2013年時点ではいまだ兆候が見える程度である。人間もまた自然の一部であり、労働力商品は資本の力で再生産不可能な自然であることを考えたならば、中国の優位性を保ってきた低賃金による巨大な労働力人口のメリットは、2010年代に入って急速に閉じられている。結局、次はインドが追いつく番となるであろう。だが、それは世界環境の破壊をさらに推し進めるだろう。

「資本は自己増殖することができないとき、資本であることをやめる。したがって、早晩、利潤率が一般的に低下する時点で、資本主義は終わる。だが、それは一時的に、全社会的な危機をもたらさずにいない。そのとき、非資本制経済が広範に存在することが、その衝撃を吸収し、脱資本主義化を助けるものとなるであろう。」(p441)

ソ連崩壊直後の栗本慎一郎氏のロシア旅行レポートを読むと、ロシア経済はどうやら非資本制経済が広範に広まっているようである。彼らは一人当たり所得としては貧しいが、実際の生活は貧しくないようだ。
日本社会もまた、非資本制経済を広める地盤は、アメリカや中国以上にあるように見える。年収100万円で、強制されて働くことをせず、衣食住は確保されることは、これからの人口減少社会においてさほど難しくないように思われる。問題は、国家が衰退する中で、いかに人々の知的水準を高く保つかではないか。