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『ハーバーマス』中岡成文

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悟性(理性)と感性(自然)の分裂

ヘーゲル-歴史の上で両者は和解される
シェリング-和解に向けて努力しなければならない分裂がある

「ハイデガーとともにハイデガーに反対して考える」(1953)
目的追求的・道具的理性 「デカルト以来の計算し、操作する合理性」(p39)
対話的理性 「意味を理解しようと聞き取る」理性

「ハイデガー、、、の誤りは、近代の独話(モノローグ)的に窮まりつつある思想伝統を打破するために、対話(ダイアローグ)性に訴えるかわりに、実存主義的な別の独話性・非合理性に陥って、政治的にも重大な帰結を招いたということだ。」(p40)

○保守性、制度の価値について
佐藤優氏は、バルトを援用しながら、別の神を招き入れるよりは既存の神のほうがよい、という視点から保守性と制度を擁護する。
アーノルト・ゲーレン 制度に身をゆだねることの賢明さを説く

「(『公共性の構造転換』)の着眼点である市民たちの自主的ネットワークの現代的意義は、その後、ソ連崩壊に先立つ東欧圏の革命的変化において、ふたたび明らかとなった。」(p51)
東欧社会主義国家では、柄谷の言う資本-ネーション-国家の輪は成立していなかった。それはただの収奪装置としての国家が、普遍主義的イデオロギーの外装を取って存在していただけであった。資本による大衆のアトム化は十分に行われず、ネーションという「想像の共同体」に大衆が身を任せるべき国民国家でもなかった。現代は、東欧革命の経験をそのまま当てはめることができない。東欧社会主義国家に生きていた人々にとって、国家はよそよそしい敵であり、ゆえに横のつながりを必死に求めた。現代は、何も意識しないでいたならば、大衆はただ資本と国家が飼い慣らしてしまう。

「実在からの強制には、政治社会的要因と、権力システムの内面化による心的抑圧との二種類がある。これらの強制が人間のコミュニケーションを組織的に歪曲しているとハーバーマスは見る。」(p77)
ガダマーの解釈学への批判。上の歪曲を指摘するために、ハーバーマスはイデオロギー批判と精神分析を要求する。
柄谷-佐藤の資本・ネーション・国家批判は、いわばイデオロギー批判である。
このボロメオの輪の内部に囚われている人間に対して、構造を解明して示すことである。
しかしながら、そこから抜け出るための実践的指針について、両者は何が言えるだろうか。
柄谷氏は、カントの統整的理念を挙げて、形式的にカント的理想を追求するべきだと言うにとどまる。具体的な道は、彼の立場上言うことはできない。
佐藤氏は、その指針は現代に生きる人間の構想力から出ることは難しいだろうと予測し、古い神話的伝統から構想力を借りるのがよいだろう、と説く。

「討議においては、日常世界で支配している権力関係は時間的・空間的制約はすべてカッコに入れられ、相互に意思を通じ合わせ、共同で真理を求めることが唯一の動機となり、各発言の妥当要求が平等で純粋な吟味の対象となる。」(p119)
理性を用いた討議によって、システムの内部に閉じ込められた意識から抜け出ることができる、というハーバーマスの立場である。
柄谷のいう「交換様式D」は、「抑圧されたものの回帰」、普遍宗教として表れる。それは、人間が根源的に欲求する互酬性を取り戻そうとする焦燥ともいえるものであるといえるだろうか。イスラム原理主義も、この焦燥のなせるわざであると捉えられる。理性と討議によって現代の人間が資本-ネーション-国家のボロメオの輪に閉じ込められていることを知ることは、できるだろう。しかし、「交換様式D」は統整的理念であって、理性と討議によって「それが必要だ」と示すことはできるが、理性と討議は何をするべきかを具体的に示すことができない。佐藤氏がそれを指し示すシンボリックな象徴(高天原)を、古い伝承から取るべきだと薦めるのは、そのためである。佐藤氏の指摘はハーバーマスの理性が人間解放に役立つ限界点を言い示し、変革の指標としてゲーレンの「制度」の効能を認めると整理できるだろうか。