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『大学という病』竹内洋

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「君たちを憎んだりはしない。けいべつするだけだ。」と言い切る丸山教授。「あんたのような教授を追い出すために封鎖したんだ」とやり返すヘルメット学生。「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ・という丸山教授たちを他の教官がかかえるようにして学生たちの群れから引き離した。(p245-246.毎日新聞昭和43年12月24日)

戦後日本、生活の近代化が戦前以上に進み、人と人の関係が互酬関係(贈る-負い目に感じる)から貨幣関係(金を払う-対価としてサービスを受け取る)に容赦なく変化していった。教える者と教わる者との関係から、人格関係が失せていった。丸山教授が戦前時代の大学の醜態を実体験したところから望み、前近代的残滓を一掃すべく日本社会を叱咤してやまなかった日本社会の近代化は、戦後社会への資本主義の徹底によって、実は成し遂げられていた。ただし、その結果は丸山教授に悔し涙を流させるほどの、人と人との関係の貨幣関係への変化であった。

「こうした中でもともと認識の明晰化の手段であったはずの方法や技法の洗練への志向が、知的大衆や他の学会からの侵犯を許さないための『自己防衛』や学会内部の『知の支配』の手段のようになってしまうという倒錯もないとはいえない。」(p275)

「マルクス主義はイギリスの古典経済学、ドイツの古典哲学、フランスの社会主義を総合したものだとして説かれた(筒井清忠『日本型「教養」の運命』)。」(p35)

竹内氏の戦前帝国大学の記述を読むと、森嶋通夫氏の戦前エリートと戦後世代との断絶という風景が、にわかに揺らいでくる。戦前の帝大生は確かに戦後よりもずっと貴重な存在ではあったが、戦前の帝大の講義風景は戦後と何ら変わらずお粗末そのものであった。とても、エリートを育てる教育ではない。

戦前も戦後も、エリートとしての教養知識は、大学講義の外から吸収していたのではないか。サークルとかインフォーマルな仲間内での集まりで、最新知識を吸収して論議していたのであろう。ならば、それは80年代末の大学と代わらない。

だとすると、エリートの質の低下は、森嶋氏の言い分とは違って、教育制度とは違ったところに見出せるのでないか、と仮に考えてみよう。

「だから、戦後も、いや、治安維持法のなくなった戦後こそ、多くのインテリが知識人としての身元証明を求めていた。そう考えれば、戦後の清水幾太郎や丸山真男などの進歩的文化人の言説と行動がかくもアピールしたことの理由も判明することになる。清水や丸山は共産党員になることなく左翼陣営の居場所を設定したからである。『党の』知識人でも『偽りの』知識人でもなく、学者(予備軍)の独立心と学者的象徴資本を生かすことができる『首尾のよい』知識人のポジション(学者的アンガジュマン)を。」(p145)

戦前の進歩思想も、戦後の進歩思想も、「バスに乗り遅れるな」的空気で我も我もマルクシズムびいきでノッていたものであった。しかしそのノリがアカデミズムを活性化し、高度の研究成果を出して、戦後のエリートの知的水準向上に役立ったのは事実である。