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『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー

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「もし国家がないならば、その境界が民族の範囲と一致するか否かを訊ねることは明らかに不可能である。」(p7)
国家は、ナショナリズムの必要条件であることが分かる。
そして、産業社会では国家は避けられない。
「産業社会は非常に巨大であり、社会が慣れ親しんできた(あるいは慣習としたいと熱烈に思っているような)生活水準を維持するためには、信じがたいほど複雑で全面的な分業と協働とに依拠しなければならない。そうした協働のあるものは、順調な場合には、自律的で中央の強制を必要としないかもしれない。しかし、協働のすべてがそのように永続的に展開し、いかなる強制や統制がなくとも存続しうるというのは、人の軽信性にあまりにもつけこんだ考えである。」(p9)
産業社会は、精緻な国家システムを必要とする。裁判所。警察。消防署。市役所。法務局。税務署。年金制度。まだまだ増える。これらが国家なのであり、産業社会の市民生活は、これらを前提としている。
ゲルナーは、このことを言っているはずである。

○農耕社会における文化
「祭儀の言語は俗語とはまるで異なるものとなる傾向が大変強い。」(p19)
サンスクリット、コプト、ラテン各語。漢文も、中華帝国においては実質上そうであった。誰も現実生活では使わない人口言語。しかし、春秋時代にもそうであったのか?

「人間の思想を連続的で一元的な体系に統一化することは、その内部においては流動的で文化的には連続的な共同体に人間が再編成されることとつながっているのである。」(p37)

連続的・一元的な体系への思想の統一、言い換えれば世界を例外なしの統一した原理のシステムとしてみなす思想態度は、人間社会の構造もまたそのように均一の原理で編成し、しかも最も一貫的・能率的な手順で編成するような運動と、同時代的に起こるのである。

産業社会は、農業社会と比べて、成員の能力が標準化されることを要求する。どんな職業にも就くことができ、どんな技能でも与えられれば習得できる可能性を持つ労働者を育成しなければならない。農業社会の技能者は、一生をかけて、多くは一子相伝で、替えの利かない技術者として生きる。今どきでもこのような人生を理想とする考えが結構普及しているが、産業社会はそのような取替えの聞かない技術者を必要としていないということを見落としている。