« 『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー | メイン | 『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー(つづき2) »

『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー(つづき)

(カテゴリ:

「農耕世界や部族世界の閉ざされた地域共同体においては、コミュニケーションが問題となる場合、コンテクスト、調子、仕草、パーソナリティ、それに状況がすべてであった。」(p55)
これは、狭い村落共同体である。だがこれで、中国や日本で広域商業ができたであろうか?
商人は村落の有力者とコネクションを持ち、物資を調達する。それを遠隔地に持ち込み、現地の有力者に高額で販売する。これによって、差額を得る。このような世界であろうか。しかし、これでは信用経済は望むことはできない。為替が発生した室町時代以降の日本では、リンガフランカが成立し、加えていわば共通の信仰を持つことが前提となっていたのではないか。

劉邦が現れた沛は楚の地方都市にすぎなかったが、住民は魏・斉と相当に交流があった。蕭何は町の吏にすぎなかったが、秦帝国の相国に着くや否や律令を理解し、貨幣政策を成功裏に実施した。これができたのは、地方都市といえども高度な知識を獲得できるほどに、当時は天下共通のコミュニケーションが成立していたのではなかろうか。

「族外社会化、つまり教育自体が今や事実上普遍的規範となる。」
「この教育基盤の整備は、あらゆる組織の中で最大のものである国家以外のどんな組織にとっても、あまりに巨大にコストがかかりすぎる。、、、文化は今や、共有された必要なメディア、活力源、おそらく最小限の共有された空気であり、その空気の中でだけ社会の成員は呼吸し、生きながらえ、生産する。」(p63-64)

共同体の外で平均的な教育が行われるのが、産業社会の要請である。その教育を行うことができるのは、国家が制定する学校制度の枠内だけである。学習塾は、子供たちに独自の価値を教えはしない。ただ、国が制定した受験科目の合格法を伝授するだけである。
今の日本は、産業社会が非常に進んでいる社会であるといえる。ゆえに家庭の教育機能がほぼ消滅して、族外教育が箸の上げ下ろしまでの教育全部を担わずにはいられなくなっている。その教師が、教える-学ぶ関係を子供に設定する場を、きわめて作りづらくなっている。保守派の教育改革とは、家父長的国家の再生が頂点にあって、その権威の下請けとして教師の権威を再生する、というビジョンであるように見える。だが、果たしてこれは機能するだろうか?
均質な族外教育が産業社会の必然的要請であるから、異なった価値観による国家に頼らない教育が、国家と産業社会にとって目障りであることになる。だが、このような多様性を包含して、なおかつ分裂しない社会を目指すことが、強い社会のために必要なのではなかろうか。

「民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。」(p95)

「文化的差異への尊敬が礼儀作法のまさに本質なのである。」(p107)
孔子の時代は、社会が流動化して礼儀が崩れようとしていた。孔子は、それを廃棄せよというイエスキリストの教えとは逆を行った。君子として自覚を持ち、礼儀をあえて行え。美しい文化を救出せよ、と。

「この社会の中では下位共同体が部分的に侵食され、それらの精神的権威がひどく弱められているにもかかわらず、しかし、人々はあらゆる仕方で相違を待ち続ける。人々は、背が高いか低いかによって、肥っているか痩せているかによって、色が濃いか薄いかによって、またその他多くの仕方によって類別されるからである。」(p109)
産業資本主義は、産業社会を前提とする。産業社会では産業資本の要請によって村落共同体は解体され、均質な個人が育成される。しかしながら、産業資本主義は差異がなければ利潤を得ることができず、不断に差異を捜し求める。産業社会の人間もまた、差異を捜し求めるというべきか。金銭的利益(学歴、技能、先読みの情報)、地位的利益(学歴、出自)、心理的利益(排斥するべき外国人、ホームレス、生活保護者)。