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『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー(つづき2)

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他の高文化がこのような変換(農耕時代的素朴信仰から産業社会的な純化された・第三者の吟味に耐える信仰への変換)を行う場合には、それらの従来の競技的支柱や土台を捨て去るという代価を支払う必要がある。それらが長い間携えてきた教義の大半は、、、認識論哲学の時代にはあまりにも非合理的で擁護しがたいものであるため、かつては利点であったのに今では厄介ものになってします。それらは喜び勇んで脱ぎ捨てられていくか、過去との結びつきや時代を越えた共同体の持続性を示す「象徴的な」記念物に変えられてしまい、それらの名ばかりの教義内容は婉曲的に無視されのである。(p135)

けれども、イスラームの場合はそうではない。、、、一方の顔は宗教的にも社会的にも多元的な農村の民衆や集団向けのものであり、他方の顔は宗教的により潔癖かつ学究的で個人主義的で読み書き能力のある都市の学者向けのものであった。(同)

教義が優雅かつ単純、簡素で、厳格に唯一神教的であり、衒学的で目障りな装飾物を多く持たないこと、これらのことは、イスラームが、教義上もっと豪華な信仰よりも上手に近代世界で生き延びていく手助けをした。けれども、もしそうであるならば、儒教のような農耕社会イデオロギーの方がもっとうまく生き延びることができたはずではないのかという疑問が当然出るであろう。儒教のような信仰体系の方が道徳の規則や秩序とヒエラルヒーとの順守にもっとその中心を置いていたし、神学的あるいは宇宙論的教義にはもっと少ない関心しか示さなかったからである。しかし、おそらくは厳格かつ強固な、断固たる唯一神論の方が、道徳への関心と結びついた教義への無関心よりも近代世界にうまく適応できるのであろう。農耕時代の、読み書き能力を基礎とする政治体の道徳や政治倫理は、近代的な好みからすれば少し尊大で不平等主義的すぎるのである。このことが、儒教が近代社会で、少なくとも同じ名称とやり方とで存続するのを困難にさせたのであろう。(p136)

イスラムは、王も富豪も庶民も本質的には平等である、という教義である。それは、わが浄土教と同じである。イスラムや浄土教は、多様な職業やバックグラウンドの人間を無条件に招くことができる強みがある。
儒学は、君子のための教義である。君子は、礼儀作法を自覚してわきまえて目的のために尽くす、エリートのための教義である。ゆえに、庶民には関係がない。朱子学は、まさにそうである。
伊藤仁斎は、儒学のプロテスタンティズムと言えないだろうか。彼の作業は、儒学をエリートのための教義から解放して、人間ならば誰でも見習うべき教義として再発見した。仁斎の革新の先に、石門心学がある。そして、日本儒学が多様で世俗的な読み方を明治以降に開いたのは、仁斎の革新から始まったのではないだろうか。中国・朝鮮では、ついにそのような読み方をする革新が起こらなかった。だから、未だに朱子学しか手元になく、古びた衒学を文化遺産として骨董品のように称揚する外なくなっている。これでは、儒学の未来はないだろう。儒学は、仁斎の革新に立ち返り、仁斎の革新から未来を見出すべきではないだろうか?

「この、非常に一般的な意味で、そして、何よりも消極的な意味で、カントとナショナリストたちとを、おそらく同じ部類に入れることができる。いずれもが、求められている意味においては、伝統を尊重する人々ではない(というよりもむしろ、ナショナリズムが伝統に対して払う敬意は、ご都合主義的に選択的である)。両者は、この広い意味において、『合理主義者』であり、正統性の根拠を、単に在るものを超える何かに求めようとしているのである。」(p223)
本当の伝統主義者は、伝統を合理的に、選択的に、アレンジなどしない。それは、低文化を高文化に作り変える操作である。伝統の不合理不条理をそのままに受け入れるのが、真の伝統主義者である。しかしそれは、近代人にとって耐え難く、そして説得力を持ち得ない。
ゆえに、必然的に合理主義であるより他はない。個別の文化を打ち捨ててコスモポリタンな近代人を理想とするカント的道を取るか、恣意的に構成された固有の高文化を民族固有の合理的文化として称揚するナショナリストとなるか。
だが、今やコスモポリタンもナショナリストも、挫折しているように見える。コスモポリタニズムは、もはや近代主義華やかなりし時代のように、想像力を喚起しない。しかしナショナリズムは、先進国民にとって周回遅れの思想に見える。その先が必要だ。イスラムやカトリックは、確かに第3の道の一つなのかもしれない。