《キリスト・イエスの下僕で、召されて使徒となったパウロ。》ここで語るのは、「自分自身の創造に熱中している天才ではなく」(チュンデルZuendel)、自分が受けた委託に縛られている使者である。」
(カール・バルト『ローマ書』吉村善夫訳、新教出版社、p35)
「有」の思想においては、普遍は神のもとにある。人間は、神の代理人として、神から委託を受けて自らを主張する。subject(臣)=subject(主体)。
日本人が「無」の思想に立っているとすれば(そして、立っているのであろう)、人間は、自分以外の、自分を取り巻く、つまりは「場」の一員として、自ら退くということか。普遍はこのばあい「場」である。空気を読む、というのはすなわち日本思想ということか。