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『トランスクリティーク』柄谷行人-再読

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ヒュームへの批判
コミュニズムという形而上学をいかに再建するか

カントの後に続いたのは、フィヒテ、シェリングのロマン主義。それらを批判する、というスタンスでヘーゲルのリアリズム。普遍性を目ざしたカントの視点は、その直後に特殊性への居直り思考によって立ち消えになった。

人間の意志を超えて人間を規制する、あるいは、人々を互いに分離させ且つ結合する或る「力」。(イントロダクション)=宗教であり、同じ力を持つものとして資本もそうである。

思わず力を持つと、認めずにはいられないもの。貨幣、互酬の他に何があるか。
国家とは、人間にとって本来よそよそしいものである。その国家に対して債務感を持つとは、どういうことか。国家は「想像の共同体」だからか。わが国の官僚たちは、国家のために真剣に尽くしているのか、そのような債務感を持たせるような国家であるか、現在の日本国は。少なくとも私は地方自治体の役人時代、自治体に尽くすという債務感が、どうしても起こらなかった。ゆえに、税金泥棒であった。

貨幣や信用の世界は、宗教と同じ原理である。産業資本主義社会は、信用によって成り立っている。ゆえに、経済変動によって破壊が起きる。前近代社会での交換様式は地域限定的で、安定している。しかし、これはユートピアではない。地域限定的で安定しているので、自然災害の暴力を受けると容易に生存が終了していまう。現代の高度な産業資本主義社会はすみずみまで商品経済が浸透しているので、地域を越えた信用に基づき、不安定である。しかしながら、自然災害がひとたび起きても、情報と物流が絶たれることがないために、すみやかにインフラが復旧してしまう。それを我々は前の震災で見た。前の震災は、産業資本主義社会のためにインフラ復旧ができたプラス面があり、しかし共同体が産業資本主義により破壊されているために地域の復興がさっぱり捗らないというマイナス面が見えているのだ。

最近の猪瀬都知事と橋下大阪市長の発言は、日本人の思考の中で「悟性」と「感性」との間に亀裂が生じていることの、病理学的兆候と言えはしないだろうか。カントによれば、「悟性」と「感性」との亀裂を埋め合わせるのは、想像力である。両政治家は、日本的特殊感性に寄りかかって想像力を働かせたロマンチシズムに傾いて発言を行ったと見られる(背景に政治的な仕掛けがあるのかもしれないが、それは見えないので置いておく。)
現状の世界のルールは、両政治家の「感性」に逆行的である。反逆者がルールを変更することを要求するのは、テロリズムである。テロリズムは力によって逆襲されることを、覚悟しなければならない。それでも断行した結果ルールが変更されるならば、それは革命と呼ばれるであろうが。

「ところで、共同体や国家は実在しても、また、ネーションを前提とした『インターナショナル』な機構が実在しても、『世界公民的社会』というものは実在しない、、、世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してでもそうすることである。」(p144)

小倉紀蔵氏は、日韓の関係を共同体ならぬ「共異体」であるべきだ、と言われる。
これはいっけん普遍を目指そうとする思想であるように見えるが、そうでない。単に、二つの感性の両方に共感を持っている存在であることを表明しただけであり、世界市民社会人ではなくて日韓ナショナリズムの表明である。悟性と感性のギャップを本質的に乗り越える提案ではない。私も両国がイギリスとフランスのような仲良くケンカする関係となることを希求するものであるが、そうなるためにはより普遍的な第三の視点(リベラルデモクラシーという価値の死守)による協同が起こり、そしておそらくさらなる外部からの圧力からのやむなき防衛的合従の契機(英仏間では、ドイツの圧力からの合従の時期に両国の関係は円満であった。だが冷戦時代においてはフランスはドイツをパートナーとして選び、英仏関係は親密とはいえなかった)が必要であろう。


マルクスが『経哲草稿』時代に類的本質を強調していた頃、彼の心中には人類共同体の甘い幻想があったのではなかろうか。じつは、その時代の彼の夢想していた人類共同体は、理想のドイツ共同体にすぎなかった。その理想がたとえドイツ人とユダヤ人とその他民族が参加した多様な共同体であったとしても、しょせんは特殊な共同体である。彼がフランスに移動してから後は、そのような甘い共同体の幻想に入りきらない外国社会を認めずにはいられなかったのではなかろうか?そのような外国までも視野に入れたコミュニズムは、個人の完全な自由から始まり、文化民族をカッコに入れた(忘れたのでは、ない)共同体でしかありえない。

「道徳は客観的に存在するかのように見える。しかし、そのような道徳はいわば共同体の道徳である。そこでは、道徳的規範は個々人に対して超越的である。もう一つの観点は、道徳を個人の幸福や利益から考える見方である。前者は合理論的で、後者は経験論的であるが、いずれも「他律的」である。カントはここでもそれらの「間」に立ち、道徳を道徳たらしめるものを超越論敵に問う。いいかえれば、彼は道徳的領域を、共同体の規則や個人の感情・利害を括弧に入れることによってとりだすのだ。」(p164)

儒教道徳は、現在の日本ではすでに共同体道徳ではない。個人の幸福や利益に役立つ、経験論的道徳である。受け止められ方としては、シュライエルマッハー的な、「われわれの伝統」として幸福をもたらす道徳としてであろう。バルト的な、「苦難の中での掟」として命じられる道徳として読まれることは、もはや難しい。というか、日本では儒教がそのように読まれたことは、一度としてない。