私にとって馴染みのテーマであるから、斜め読みの速読ができる。全部読むのに、1時間もかからない。
新資料としての『上海楚簡』。
訓詁学的には興味深い点が多くある。それと、武内義雄『論語之研究』の論語成立論に対して、補足的資料となるだろう。
だが、出土テキストの内容は、儒家の主張の範囲内であると思われる。
中井履軒『論語逢原』
温故知新の解釈『熟語解 造語解』黒本稼堂
しかし、黒本および湯浅氏の解釈は、伝統的解釈からまた外れている。伝統的解釈は、「昔習ったものを今もう一度習いなおす」という意味だ。
孔子が性を語らなかったこと、天を学ぶ意味について
湯浅氏の説は、とくに新味はない。私は、ブーバーの「我と汝」に引き寄せて孔子と弟子たちの差を解釈するべきだと思う。
従政論。孔子学校が就職塾であるという考えは、非伝統的とはいえ素直に読めば明らかなことである。むしろ、古注はその読み方に近い。
楽論。心に響き感覚を楽しませて統治する術であるという、荻生徂徠の説と違いはない。
孝論。孝が社会統治術であるという視点は、やはり荻生徂徠のそれと同じである。
夢論。その考証に至る道筋は丁寧であるが、結論は大したことがないと思われる。孔子を一努力者・伝記中の偉人程度に見れば、失望する孔子像は簡単に見えてくる。これが革命的であるという主張じたいが、驚きである。