佐藤優氏から導かれて読んでいるが、じつに面白い。
ローティーがアメリカ的伝統に立脚するアメリカ的左翼を提唱する路線に、日本とアメリカは文化が違うことを認識しながら、著者は共感を持っているようである。そして、柄谷氏や浅田彰氏らの、かつてはポスト・モダン思想を喧伝し先導した論者たちが、近年明確な政治プログラムを掲げて旗を振っている動向に対して、これを全共闘時代への先祖返りを無反省に行っていると、手厳しい。
私は、これも結局は日本的文化伝統の枠内の出来事ではないか、と一旦は超越的視線から言ってみたい。
外国の輸入思想をもとにして日本的状況を普遍性のロジックで語ろうとする姿勢は、わが国民がいつも繰り返していることではないか。吉本隆明と丸山真男は、とっくにそれを指摘していたではないか。つまりは、また日本的思想のあり方を、反復しているのである。
親鸞と日蓮は、輸入された仏教を、ラジカルに純化させようとしたではないか。
仁斎と徂徠は、また輸入された儒学を、鋭く純化させたではないか。
日本ポスト・モダニストたちのやっていることは、差異と反復なのだ。そして、90年代以降の彼らの言説は、残念ながら日本的状況からずれ始めていると思う。柄谷氏の『世界史の構造』における現状分析はさすがの巧みさであるが、そこから後の倫理的提言は、どうであろうか。広範囲の説得力を、日本の中で持ち得ないと私は思う。
かといって、佐藤優氏が神皇正統記を持ち出して日本の国体を語る道も、ごく限られた国粋主義者にしか説得力を持ち得ないと、私は思う。
私はむしろ、これまで外来の思想を手がかりにして先鋭な議論を展開した人々を、代表的日本人として顕彰し、それらの議論の総合こそが日本的プラグマチズムなのだ、と今は仮に考えておきたい。
法然、親鸞、日蓮、仁斎、徂徠、宣長。その先に丸山真男、広松渉、吉本隆明、柄谷行人がいるのである。彼らの依拠する外来思想はいろいろであるが、全てそれらをまずは健全な常識から出発して純化し、納得のいく論理にまで再構成した先駆者たちであった。
最後に、90年代半ば以降の、氏の名づける「左旋回」については、やはり時代的現象であったと言うほかはない。かの時代はアメリカ一人勝ち時代であり、日本は無思想のまま世界の黙れるNo2であった。ポストモダン論者の「左旋回」は、その国際状況のもとに、日本国家を自立させようという企みを持った言説であったといえる。
2010年代の現在、日本は「侵略される」という危機感が急浮上している。これは、1945年以降の日本が直面しなかった(というか、東側の侵略というテーマについては直面せずとも左翼思想を組み立てることができた)問題である。ここに至って、「左旋回」した思想家たちは、おそらく足並みを乱すより他はないであろう。揺り戻して右傾化するか(高村光太郎!)、敗北主義に沈むか(ペタン主義!)、そのどちらかに至るならば、もはや誰からも見放されるであろう、、、