「、、、変革は表面的な政治論の奥深く強い方法そのもののうちに目立たずしかし着々と進行していたのである。」(p138-139)
ということで、丸山はヘーゲルの中国=無歴史というテーゼを肯定したうえで、日本≠中国という仮説を検証しようとする。
朱子学は、華厳思想を裏口から輸入して展開した、宇宙を統一的原理で理解しようとする、包括的かつ排他的体系である。小倉紀蔵氏の指摘のとおり、そこには近代にも適合する合理性がある。ただ、中国・李氏朝鮮と日本を分けたのは、朱子学を受け入れたそれぞれの社会が、前者が世界システムにおける中心および周辺であったのに対し、後者が亜周辺であり、したがって農業社会を全て統合する静態的な帝国が成立できない地理的条件にあったことに求められるだろう。見よ、藤原醒窩の仏教排撃論は、朱子学によって仏教の非社会性を理路整然と批判して、朱子学の勝利を日本で短期間にもたらしたではないか。弟子である林羅山は京都公卿衆の漢唐訓詁学者を、朱子学の合理的理論を示すことによって圧倒したではないか。朱子学は、合理的な社会倫理として、彼らに表れていた。その合理的な社会倫理を国学として制定した李氏朝鮮は、前代の仏教をほとんど絶滅させ、土俗信仰を窒息させた。これこぞ、朱子学の隙のない合理的社会倫理が、他の信仰に対して反論の余地をなくして追いやる説得力を持っていたことを、歴史的現象として現してはいないか。
「道徳は遍く天下に達するを以て言い、、、性は専ら己に有するを以て言い、、」(仁斎、童子問より)
仁斎にあっては、朱子学の性論・天命論は、自然法則的と原理を同じくする人間法則に、人間が受動的に従属する主張に見えた。仁斎はこの受動性に違和感を持って朱子学を批判し、人間の道徳に対する能動的関与を主張した。
だが、中華帝国のコンテキストで言えば、そこでは君子/小人の区別は峻厳に明確であって、少数者エリートとしての君子が天の法則に自らを従えて情欲のままに流される小人どもから自らを区別して、倫理的別人の上位カーストとして自らを律する、という朱子学の教えは、違和感なく受け止められたであろう。これは中華帝国が世界システムの中心であったからであり、システムの周辺であった李氏朝鮮でもまた、同様に認識されたであろう(周辺であった李氏朝鮮では、中心のシステムに自らを適合させるために、自らをカースト社会に強権で再編成した、とも言えなくはないだろうか)。
ただ日本は世界システムの亜周辺であったので、中心・周辺のような強固なエリートが作られる条件を満たさなかった。中華帝国や李氏朝鮮で、仁斎や徂徠のような一市井の学者たちが、あれほどの熱狂的な支持を受けて武士階層の思想すらリードすることなどは、ありえなかった。