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『近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連』丸山真男(つづき)

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「徂徠における公私はなんらかかる意味をもたぬ。なるほど彼において『公』的なものは『私』的なものに先行せしめられている、、、しかしそれは私的なものをそれ自体排するものではない」(p227)

林羅山の朱子学解釈では、公=天理、私=人欲であり、後者は当然の悪で抑圧さるべきものであった。これは、朱子学の本来の公私観である。だがこの公私観は、明治政府によって後世復活したことを、我々は知っている。ゆえに、明治国家は朱子学国家の遅ればせながらの完成なのであった。

では、徂徠はどうして「私」の領域の肯定的価値を発見することができたのか?ずっと後世の吉田松陰に至ると、「私」は再び否定される。それは、彼が長州藩一家臣として、日本国の「天吏」として自覚を持ったときに起こった滅私奉公倫理であった。その緊張を、元禄享保時代の仁斎・徂徠はもたぬ。およそわが国においては、外的緊張がない時代においては容易に階級意識が崩れて「昭和=元禄」社会が成立し、外的緊張が実感されたときにはエリートたちが天吏意識を持って下にもそれを伝播注入しようとする「一億火の玉」社会に転換するのではなかろうか。徂徠の異常なまでの博覧強記、舶来趣味への滑稽さを伴うまでの没頭、本家のセオリーをも越えるような鋭角な理論提出(しかし、実際の政治的力はもたぬが)、これらの特徴は、昭和末期ポストモダン時代の知識人たちの類型と、非常に近いのではないだろうか。

那波魯堂「学問源流」より
「徂徠の説、享保(1716-36)中年以降は信に一世を風靡すと云うべし。然れども京都にて至て盛んに有しは徂徠没して後、元文(36-41)の初年より、延享(44-48)寛延(48-51)の比まで、十二三年の間を甚だしとす。世の人其説を喜んで習うこと信に狂するが如し、、、程朱の注を用い書を講する人の許へは仮初に行く人もなければ、或は俄に朱注に論語徴を雑え並べて教ゆる人あり、、、中葉以来多少の考索の書、経書語録詩文の類、一言にても徂徠其非なることを云いたるは、見る人もなく、、、」
その流行が異常であったこと、昭和初年のマルクシズムのようである。いずれも、公定の権威的学問に反逆することが若い学ぶ者にとって時代の義務のように感じられた一時代であった。