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『トランスクリティーク』柄谷行人-再読(つづき)

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「人がすすんで官僚になることはない、と考えなければならない。」(p118)

アッシリアの官僚は宦官であり、ビザンチンもたしかそうであった。オットマン帝国のイェニチェリは、奴隷貴族である。荀子が力説したように、戦国時代において成立した専制官僚国家において、官僚は国家の奴隷でなければならない。

「(アジア的共同体における)農業共同体とは、専制的国家によって枠組を与えられた『想像の共同体』である。」(p112)

この視点は、面白い。中華帝国における村落・氏族共同体は、専制帝国が成立した後に、その原理と抵触しない範囲で互酬的原理を維持するために(国家の手を経ることなく、下からの自発的防衛策として)再編されたものである。それは、氏族社会にあった政治共同体とは断絶している。

「交易の必要は未開の段階からあった。小さな氏族的共同体の上に高次共同体が形成されたのは、そのためである。、、、国家は、そのような原都市=国家の間の交通(交易と戦争)によって形成されたのである。」(p123)

国家の両面性。征服-服従の関係、および広域での安全な交易を保証する組織。

「国家は(貨幣)を遠隔地交易から得たのである。」(p125)

戦国時代、戦略的輸出物資は、おそらく絹であっただろう。その輸出ルートはどこにあっただろうか。北方の匈奴、西方の月氏を通じて、西方と交易していた可能性が高い。その流れの逆を伝って、トルキスタンから玉が入り、これが王のステイタスを増す財宝として、大きな力を持った。戦国諸侯は、玉を得るために絹を増産して輸出した、という仮説を立ててみたい。

山田勝芳『貨幣の中国古代史』を読むと、戦国期から漢代にかけて、物の貨幣に対する変動が市場で当たり前の現象となり、そこから投機によって利益を得ることが当然の智慧として見られていたことが分かる。孟子の中に見える、商品には価値に応じて異なる価格が成立するのが自然である、という主張は、価格が国家の統制から外れて決定されることを表明しているわけで、これは現代人には分かりやすいが、古代社会においては自明でない。
農村共同体の維持という観点から見れば、陳相の一物一価論は、もっともな主張である。すると、戦国時代の農家は、崩れて行った農業共同体の維持を主張していた集団であるともいえる。近代に直せば、共同体の自生的秩序を擁護するアナキズムといえようか。
だとすれば、それに反対した孟子の立ち位置は、いかがなものであろうか。儒家の生活感覚として、すでに農村共同体から切り離され、国家に寄生する官僚予備軍としての色彩を帯びていたのであろうか。どうもそのように見える。その立ち位置で、君主と官僚との間の互酬性を主張することができるだろうか。後世の儒者たちがむざんにも国家の奴隷となることを自ら任じたのは、儒家の立ち位置からして当然である。孔子と孟子は、理想が必然的に裏切られるレールが敷かれた思想家であったというべきか。