「古代国家では、私人に対する義務は必ずしもつねに厳格であるとは限らないのに対し、公人に対する義務は、『法的に厳格』である。」(p177)
バビロニアの「商人」とは、実際には公的手続きに従って買い付けを行う公的業務が主であった。これが、非市場社会の通常の姿であったろう。近代以前の公的貿易といえば、中国との朝貢貿易も、朝鮮との交易も、ノーリスクの事業である。
子貢が、私人として交易を行う条件など、あったであろうか。
魯を去った後の孔子教団は、各国を練り歩いて寄宿する、さながらユダヤ人集団のような性質を持ち始めたのではないだろうか。子貢の投機は、そのときに国の間の価格差に着目して行われたのかもしれない。(各国内での価格差は、春秋時代ではおそらく国家規制により存在しなかったのではないか。)
このような移動国家として自分で生計を立て始めたゆえに、各国から異端視されたのではないだろうか。
「経済分析は市場メカニズムという、アリストテレスがまだみたこともなかった制度の解明を目ざしているからである」「ギリシャ人は、市場の存在しない文明世界への新参者であって、ようやく市場交易へ転回しようとしていた新しい交易様式を発達させるパイオニアに、周囲の状況から無理矢理にならされてしまったのである。」(p189)
市場メカニズム=異なった財の間に公正な等価が存在し、国家全体が統一されたクリアなシステムの下にあることが認識される社会。この下に、思想が生まれ、社会改造思想もまた生まれたのではないか。
西洋では、メソポタミア、エジプトは市場メカニズムを必要としなかったので、思想は発生しなかった。無理矢理故郷から引き離されたユダヤ人が、初めて思想を開始した。ユダヤ人が同時に商業民族として目覚めたのも、バビロン捕囚以降であった。
ギリシャ人は、ウィットフォーゲルの言う亜周辺に位置し、戦士共同体の原理を持続したコミュニティを持っていた。その結果多数の都市国家に分裂して、国家の「間」がいたるところにあった。これが、思想を開始させた物質的条件であり、市場メカニズムが始まってしまった物質的条件でもあった。
孟子の一物一価論を見ると、戦国時代中期には市場メカニズムが存在していることが、当事者たちに意識されていたと思われる。(孟子が「壟断」を批判して公正価格を主張したことは、アリストテレスの投機批判と同じであることに注意!)そして、孟子~荀子~韓非子と続く儒家=法家思想家たちの系譜は、国家を上から改造統制しようとする、構成主義的倫理観であることにも注意。韓非子から100年後の司馬遷貨殖列伝は、明確に市場メカニズムが存在し、そこから投機によって利潤を得ることを正義としてあからさまに肯定している。貨殖列伝を読んだときに感じるある種の「不潔さ」は、現代の投機金融業界に感じるそれと、同質である。戦国期に始まり漢代前期に絶頂に達する市場メカニズムの横行は古代世界では空前の規模であり、社会的公正さの崩壊もまた空前の規模であった。漢代前期の経済成長が武帝期以降行き詰まったときに矛盾が表面化し、経済思想的には黄老道のレッセフェール政策から儒教の価格介入政策に転換し、ついに王莽の登場によって復古主義をたてまえとした経済統制政策に行き着いた。
春秋時代もまた、ギリシャ同様に多数の都市国家に分かれて、国家の「間」が多数存在した。これが、春秋末期から市場経済に次第に巻き込まれていった原因となったことであろう。これは、先行する中央集権的な殷帝国が蛮族の周によって襲撃・崩壊した後、同族の血縁的紐帯による支配者階層が分与された殷の遺民を奴隷として従える広域封建支配に移行したことによって、帝国化が妨げられた結果ではないだろうか。
「礼」について。
荀子においては、「礼」は富の公正な配分と、不可分に結びつけられている。富と身分は、比例的なのである。当然ながら、身分なしで富を得る商人は、原理的に排斥されることになる。
論語には、富と地位とが必ずしも一致しない、という不安が見える。(述而二)
ヨウ也四、公西赤のエピソード。礼に応じて富を配分することを、孔子が公西赤が実質的に富を持っているとして、拒否した。
ヨウ也五、原思のエピソード。原思が公米の支給を(たぶん十分に富んでいるから)辞退したのを聞いて、孔子が公米を郷里の者に再配分せよ、と言った。
子路が貧者に粥をふるまったたとき、孔子が礼に外れている、と非難したエピソード。
これらのエピソードは、富と地位とが一致せず、名誉ある者が富を再配分するという礼の秩序が崩れ、名誉なくて富がある素封家が現れ始めたことへの、社会不安定化への非難を示しているのではないだろうか。
アリストテレス『政治学』のシケリアの蓄財術(岩波文庫、60ページ)。
これは、買占めによる独占的利潤である。その買占め者は、君主ディオニュシオスによって追放された。これが、投機者に対する通常の為政者の姿であるはずだ。子貢だけが、許されたはずがない。彼は、最初孔子教団のために投機して各国から迫害され、後に投機の知識をもって国家権力の中に入って合法的に富を積んだのかもしれない。