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『危機の構造』小室直樹

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小室氏のことを、橋爪氏や副島氏が絶賛していることに、私は二十年前から密かな疑問を持ち続けていた。
それは、小室氏の学問が粗雑であるから、ということではない。
むしろ、彼の学問がそれほど新規なものであるという彼らの主張が、私には信じられなかったところにある。ウェーバー以降の社会学の延長線上にある積み重ねとして、小室氏の学問はあるということは、私には自明のように見えた。それはごく普通の学問の正道であり、まるで珍奇な予言者のように大騒ぎするべきことではないではないか。

小室氏は、日本企業の機能集団+共同体という社会的役割は、戦後日本の急性アノミーを収束させる結果、生み出されずにはいなかった構造である、とみなしていると思われる。いわゆる「40年体制」論の論拠である岡崎・奥野『現代日本経済システムの源流』の言う、「戦後システムは戦前の統制経済からの連続である」という主張と、時間スパンとして二十年ほど構造発生の時期が遅い。折衷するならば「40年体制」はシステムが発生した必要条件であり、戦後アノミーの収束としての日本企業共同体は持続的にシステムが運営される十分条件であった、というところであろうか。日本全体を擬似家族共同体として組織する丸山の描く日本天皇制体制が、近衛新体制運動により経済分野まで組織化され、戦後天皇制体制の擬制が取り去られた後に共同体の受け皿としてそのまま持続し、高度経済成長に適合的であったために拡大再生産された。このように統一的に理解できるだろう。

推理小説の例が、なかなか面白い。戦前の小説の舞台は村社会の中の家の葛藤である。それが戦後の小説の舞台では、会社の中の組織上の葛藤がテーマとなる。それぞれの時代において、人生最大のテーマを作る舞台が変化したことを、小室氏は捉えている。2013年現在、私が読んだ限りにおいて、会社を舞台とした推理小説もまた没落しているように見える。ここに、日本企業が共同体でなくなった小泉時代以降の社会が反映されている。現代の日本では、互酬原理を作動させる場が、明確に見えない。家庭でもなし、会社でもない。ネット上には濃厚な互酬原理が見えるが、これがリアル社会を編成するようには思えない。フェイスツーフェイスのコミュニケーションとヴァーチャル世界でのコミュニケーションは、本質的に異なると思われる。ネットで濃厚に互酬原理を楽しめる人間が、一日でもそれらの相手と同泊できるであろうか?

「共同体外とのコミュニケーションはマスコミの介在により外面的には頻繁となりながら、内実的にはますます無意味なものとなる。」(p106)
すでに、ネットに居場所を見出している無視できない数の集団が、このメンタリティーに移行している。彼らにとって、ネット世界だけが内実的に意味ある世界であって、それ以外の家庭、会社、学校、地域はすべて本質的な意味で無意味である。つまり損得を越えて心からコミットする価値がない。

このネットコミュニティの特質として、言語排他的である。他文化人とのコミュニケーション、相互理解を可能とする様式は、フェイスツーフェイスでの関係でなければいけない。フェイスツーフェイスと相容れないネットコミュニティーは、よって国語と文化によって強固に縛られている。ここに、小室の言う「非難拒否症的体質」が日本語が通じる日本国家とオーヴァーラップする危険がある。ネトウヨは、ネット社会が必然的にもたらす症状であるはずで、説得で解消できるものではなくて共同体の構造に由来しているのではないか。

小室氏は、70年代の日本の状況が単純アノミーである、という現状分析をしている。つまり、小室氏から見れば、この時代に「六〇年安保によって生じた国民的統合の喪失を回復するために導入された」高度成長が、このとき生活水準の向上を必ずしももたらさない、という規範の動揺が起こった。
それを社会的破局に陥らせないために、構造的アノミーが再生産される。構造とは、機能集団+共同体と化した企業の戦士たちが、共同体内で象徴的財(称賛、地位)を獲得するために無限に働き、それがしかも決して効用の上昇につながらない、という無間地獄である。アノミーなので、働くことに意味がないということがすでに自明であるにも関わらず、止められない。小室氏は、ここからの逃避行動の徴候として、自殺と破壊衝動を取り上げた。70年代過激派に対する現状分析である。

この構造的アノミーは、2013年現在大きく範囲を狭めていると思われる。大企業・役所の正社員の幅が、小泉時代以降狭くなっている。そして、大企業の周辺の亜共同体は、ほぼ解体されてしまった。しかしながら、構造的アノミーが解消される代替構造としての、共同体ではない労働力を評価する労働市場には、全く移行していない。正社員(構造的アノミーの残留社会に留まる)/派遣労働者(構造的アノミーから弾き出されて、複合アノミーにたどり着くことを強要される)の二重構造が、強化されている。

現在の日本社会はでは、小室氏の指摘する複合アノミーが際限なく細分化されて広がっていることは、明らかに思われる。さて原子アノミーとは、複合アノミーの広がるディスコミュニケーション社会において、それでも各小コミュニティーに配分される権力資源が、当事者にとって公共資源ではなくて私有資源のように印象されてしまう現象である。これは、非競争社会において腐敗となって甚だしい害をもたらす。日本の原子アノミーは、中国のそれほど露骨ではない。だが、確実に広まっているように思われる。比較的優遇された会社や役所に滑り込み就職できている社員たちは、その境遇を役得として感じ、侵害されることに激しく抵抗する。正社員たちが露骨な腐敗ではなくて隠微な既得権に逃げ込んで、新自由主義のいう「自己責任」のエクスキューズによって自分の既得権を正当化している。隠微な原子アノミーであり、東電がよい例であると思われる。

ところで中国であるが、小室氏は中国社会を宗族集団による相互扶助共同体が基礎にあり、その上を統合する権力としての中央集権官僚制がある社会、と見なす。
宗族集団は互酬的である(出世しそうな子弟には一族が全面的に支援して、その対価として出世した子弟に一族への利権配分義務が生じる)。宗族集団と日本の企業=共同体の違いは、前者は資本主義原理とは無縁の存在であり続ける、という点であろう。つまり、中国とは各宗族集団の共同体が、共同体の外にある経済から利権を奪って、それを共同体内で配分するシステム、ということであるはずだ。科挙試験によって選ばれた士大夫官僚システムは、完全にこのシステムに適合的であった。日本人が目を見張る中国官僚の驚異的な富と権威、同時に日本人が目を背けたくなる腐敗と天下国家への無責任は、このシステムが背後にある。
現在の中共は、経済成長を前提としているシステムに嵌っている。経済成長がある限り宗族集団は外部社会から利権を奪って配分できる期待を持つことができて、国家への求心力を持ち続けることができる。中華王朝が傾く原因は、決まって経済成長の行き詰まりであった。経済成長が行き詰まると、①富の獲得以外の価値を持たないため、低成長に甘んじるエトスを持つことができない②宗族を超えた社会全体への倫理観が育たないために、社会の格差拡大を緩和する社会的仕組みが育たない。こうして、社会は不穏な状勢が進行し、やがて農民反乱へと進むのがパターンであった。中国政府は上から①②を育てようとしているようであるが、おそらく困難であろう。ここから21世紀中国の「危機の構造」を読み取ってよいと思われる。