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『福沢諭吉の哲学』丸山真男

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「当時の民権派の政府攻撃の心情のなかに濃く流れている反近代的精神として福沢の敏感な神経に触れたのは単にその公式主義や極端主義ばかりではなかった。民権論者がひたすら専制政府の打倒と政権の獲得に全エネルギーを集中する程度、その政治万能主義と中央権力への凝集傾向それ自体、福沢においては『権力の偏重』の倒錯的表現であり、政治的権力に一切の社会的価値が集中している社会における必然的な随伴現象であった。」(丸山真男集第三巻、p190)

柄谷が福沢の脱亜論を明治国家のアジア主義vs西洋主義の二基軸の一方の表象として切って捨てた視点と、丸山の福沢への視点は大きく異なる。丸山は福沢をプラグマチストとして評価し、日本が当面する時事問題について、日本の発展段階に即して論評しようと試み空理空論を斥けたのであって、結果として明治十四年以降の福沢がより国権尊重を論じたまでにすぎない、と評価する。福沢は当時の日本においてはまだ大衆の中に知徳がいきわたっている段階ではない、とみなしていたゆえに自由民権運動への醒めた評価を下し、より実業の精神を持った民間活動家の育成を目指したのだ、と丸山は論じる。それは、丸山が戦後の大衆に求めた覚醒への期待と、二重写しであったと言えるだろう。

現在の日本の状況は、嘆かわしいのであろうか。
現在の日本大衆は、もはや中央権力への凝集傾向など存在しない。各人がめいめいに意見を持って日常生活を送っており、ゆえに政治の求心力はこれ以上ないまでに地に落ちている。大衆は、成熟しているのである。これは、前近代王朝における衰退期社会の気力減退とは似て非なるもののように思われる。衰退期の王朝で起こった中央権力の求心力の減退が現代日本で見られるどころの騒ぎではない。現代日本において、国家への求心力は強固に保持されている。ただ、それを活用する枠組みが従来の代議制民主制+官僚制において見つけられていないだけである。現代日本のような社会は、いまだかって人類の歴史の中で起こったことがない。