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十八 戦は続く(2)

(カテゴリ:楚漢の章

韓信は、言った。

「彭城での敗戦について、大将軍の私は責を負わなければなりません。それで、大王のご処断を得るために、戻りました。」
韓信は、不動の姿勢で拝礼した。
漢王は、厳しい目で彼を見据えた。
漢王は、言った。
「― 俺がお前を、斬ると思って戻ったか?」
漢王は、腰の剣を抜き放った。
そうして、韓信の首にぴたりと当てた。
漢王は、韓信の首を剣でとん、とんと小突きながら、言った。
「お前は、責を取って死んだと思ったよ。たいていあれほどの大敗をすれば、大将軍ならば敗軍を羞じて自決するもんだ。それをのめのめと主君の前に、戻ってくるとは―」
漢王は、韓信の弁明を期待していた。
もし敗軍の言い訳をするようならば、しょせんこの阿哥(にいちゃん)は大した男ではない。このまま、剣をすらりと引いて命を終えてやるまでだ。
韓信は、首の先に鈍い青銅の匂いを嗅いだ。
彼もまた、漢王を見据えた。
その目は、少しの動揺も見せなかった。
韓信は、漢王に言った。
「ご忠告しておくべきことが、ございます―」
漢王は、聞いた。
「なんだ。」
韓信は、言った。
「大王は、野戦に向いておりません。策がなく突き進むだけの野戦では、勢いに勝る項王軍に今後決して勝つことができません。」
漢王は、怒りの目で韓信を睨んで、言った。
「― 今日の戦の細工は、お前がしたのであるな?」
韓信は、答えた。
「大王が項軍との戦闘に打って出られたのを、拝見致しました。必敗であると、見て取りました。それで、敗北を避けるために、手を打ちました。」
漢王は、聞いた。
「必敗であったか、俺は。」
韓信は、答えた。
「あの状況で滎陽を出て野戦を決断されるようでは、大王は己を知らぬと判断するより他は、ございません。己を知らなければ、戦う度に必ず死の危険に陥ります。大王が今後取られるべきは、籠城戦です。物資に豊富な漢軍は、籠城戦を行なえば項王軍より有利となります。加えて滎陽・成皋から広武山にかけての防衛線は、秦が東方への敵に備えて堅固に構築したものです。たとえ項王といえども、容易に抜くことはできません。これからの漢は、持久戦あるのみです。一方で項王の進撃を籠城戦で食い止めながら、他方で周辺の諸国を順次切り従えるのです。無敵の強さを誇る項王の手を切り、足を断ち、気付いた時には彼の周囲は全て漢で包まれてしまう。大王が天下のために行なうべき策は、それより他はございません。」
それが、韓信の観察であった。
張良子房の観察と、ぴたりと一致していた。
漢王は、韓信に問うた。
「、、、項王を食い止めるのは、誰か。諸国に攻め入るのは、誰であるべきか!」
韓信は、答えた。
「大王が、お決めになられませ。これは、大王の戦いなのです。」
韓信は、静かに首を前に出した。
彼は、漢を勝たせるために淮陰を出て再起したのであった。
自分をどう扱うかは、漢王の判断であった。
二人の間に、長い沈黙が流れた。
それから、後。
漢王は、握った剣を降ろした。
「― 大将軍、遅かったではないか!」
漢王は、韓信に言った。
「また俺は、負けるところだった。これから俺は、あの強い項羽と必死で戦わなくてはならん。俺の配下には、一人でも手駒が欲しいのだ。大軍を指揮できるお前なんぞは、真っ先に俺のために働かなくてはならん、、、逡巡(ぐずぐず)するんじゃねえぞっ、韓信!」
漢王は、そう言っては、は、はと笑った。
項王に勝つためには、韓信の将才がどうしても必要であった。彼の才は、自分の昔からの配下ではとても取り替えることができない。
漢王は、善人でも何でもない。
だが、彼は誰よりも勝利への執念を持っていた。
一時の怒りに任せて、手持ちの狗(いぬ)を追い詰めて殺す。この世で人の上に立つ者には、そのような愚か者が非常に多い。漢王が余人と違うところは、一時の感情に任せて勝ちの方向を見失わないところであった。勝った負けたは、時の運である。大事なのは、最後に勝ち残ることだけであった。それだけが、自分の幸福となるだろう。彼は、一級の博亦(ばくち)打ちであった。
韓信は、こうして許された。
ここで、彼が漢王の危機を救った秘密について言わなければならない。
韓信が戻って来たとき、すでに漢軍は項王軍との戦闘に向かっていた。彼は、漢軍が敗北すべきことを、見て取った。だが彼は、両軍の戦場について思い当たることがあった。
韓信は、かつて中国各地を渡り歩いて各地の地理を研究した。過去の政治や戦争の文献に当って、歴史の中で興亡した諸侯たちの事跡について、くまなく調べた。その知識の中に、かつて戦国時代の王がこの辺りに広大な沼沢を作らせていたという記録があった。だが、現在の地形では、周辺に水を引く川も湖沼も見当たらない。自然のままでは、水のない平原でしかなかった。
「― かつての王は、秘密の技術を持つ工匠を用いて、はるか遠くから水を引いていたのだ。広大な沼沢は、もともと敵の侵入を防ぐためのものだった。しかし王はその沼沢を、船を浮かべて遊ぶ己一人の楽しみのためだけに用いた。それで工匠たちは王に絶望して、人工の沼沢をつぶして去った。秘密を知らぬ王は沼沢を取り戻すこともできず、やがて王国は力衰えて、沼沢の記憶さえも歴史に埋もれてしまったのだ。」
韓信は、小楽に説明した。
「そうか、、、その沼沢が、生き返ったんですね?」
小楽は、韓信の知識に感心した。
小楽は、もう兵卒はやめていた。
だが、しばし郷里に戻らず、韓信に付いて行くことに決めた。彼の知は、小楽を刺激する快さがあった。それで、今も韓信の隣にいて、彼の講義を聴いているのであった。韓信は、彼にすすんで自分の知識を色々と披露した。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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