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十八 戦は続く(1)

(カテゴリ:楚漢の章

漢王は、下邑に落ちのびて周呂候の兵と合流した。

彼は妻と父とを、置いて去るより他はなかった。自分が勝つためには、やむを得なかった。
下邑の漢王のもとに、張良子房が戻って来た。
張良は戦線に出ることもかなわず、彭城での混乱で行方を見失っていた。
その彼が無事で戻って来たことを、漢王は喜んだ。
「― ありがたい。お前がいれば、まだ俺は戦える。」
もし張良が小賢しい才子であったならば、漢王は敗戦を責めて彼を叩っ斬っていたであろう。しかし、張良とは己を勘定に入れることもない、無欲の人であった。項王に敗れたとはいえ、彼の才と人物は、漢王にとって手放すべきものではなかった。漢王は、彼の失敗を責めなかった。
そのような漢王に、張良は深く謝した。
「死ぬことも能わず、天下を平定することもできず、私はこうして生き長らえております、、、大王の御心に沿うように、この命尽きるまで尽力いたしましょう。」
張良は、小さな声でうなだれた。
漢王は、うなずいた。
それから漢王は、張良に聞いた。
「見事に、負けてしまったよ、、、何とか、今後あの子と勝負に持ち込む策はないだろうか?」
張良は、答えた。
「漢は、天下の半分を占めています。一挙の戦いで敗れた以上は、持久戦より他はありません。持久戦では、味方を太らせて敵を削り取っていくことが、長期の策として必要です。各地の諸侯については、今後我らの味方に付くか否かを明らかにして、場合によっては兵を送って漢に併合することも考えるべきです。」
漢王は、言った。
「、、、つまり仁君のまねごとは、もうやめにすべきというわけか?力で、諸侯を押さえ込む、、、」
張良は、うなずいた。
「― 状勢は、一変いたしました。今後は、大王と項王との、力と力の争いです。」
方針は、決まった。
漢王は、西に戻ることにした。

彭城では一敗地にまみれた漢王であったが、その傷は思ったよりも小さかった。
曹参に灌嬰、そして樊噲の軍が戻って来た。
曹参と灌嬰は雍丘(ようきゅう)に守備線を張って、動揺して離反の動きを見せた降秦の諸将をつぶしていった。
漢王たちは、伸び切った戦線を縮小しながら、順次退却していった。
梁を通って、すでに漢の支配下に組み込まれている河南の土地に入った。
河南に、滎陽(けいよう)という城市があった。河水(黄河)の南に位置して、東西の通路を扼する要地であった。
この滎陽の近くには、巨大な食糧庫である敖倉(ごうそう)があった。滎陽と敖倉は、河水の水運を通じて連繋できるように設計されていた。秦帝国が東から侵入してくる敵に備えて入念に整備した、始皇帝の置き土産であった。
漢王は、諸将と共に滎陽に入った。丞相の蕭何が、漢王の危機に応じて関中から新規の兵を滎陽に送り込んで来た。
「ありがたい。さすがに、丞相は手際がよい。」
漢王は、丞相の助けによって、とりあえず態勢を立て直すことができた。
漢は、旧秦の領地を占めている。
どの国よりも、長く戦い続ける地力があった。
最も富裕な土地に拠点を置くことの有利が、危難の時期の漢にとって底力となった。
滎陽に入った漢王軍に向けて、項王軍が来襲した。
相変わらずの、電撃の襲来であった。
「守るべきか― 出るべきか?」
諸将は、議論を分けた。
項王軍の強さを、あれだけ見せ付けられた直後であった。打って出て、勝てるとはとても思えない。だが、このまま籠城してやり過ごすことができるかどうかも、確証を持てなかった。
軍議で迷う諸将を、漢王は一喝した。
「― 怖気づいていて、勝負になるか!俺は必ず、勝ってみせる、、、俺に、付いて来い!」
必ず、勝つ。
漢王は、その信念を配下に注入した。
彼だって、内心勝てるかどうかなどは、全く分からない。それでも、人の上に立つ者として、勝つ信念を見せなければならない。上が立ち上がらなければ、いったいどこの組織が勝利に向けて一丸となりうるであろうか?
戦場は、滎陽の南の京(けい)・索(さく)の間であった。
兵数は、漢軍が圧倒していた。
やって来た項王軍は、彭城から遮二無二急追した後の、ようやく辿り着いたさざ波程度の部隊であった。
通常の用兵ならば、負けるはずがない。
しかし、戦況は思わしくなかった。
将兵たちには、項王軍への無意識の恐怖が染み付いてしまっていた。
兵の動きは鈍く、諸将の指揮は適確さを欠いた。その隙に、わずかの敵兵がこちらの大軍を食い破る結果を出し始めた。時が経つに連れて、自軍の綻びは大きな亀裂となって、乱れていった。
「またも、、、負けるのか!」
漢王は、落胆してうなった。
漢軍は、退却に移った。
項軍は、退く敵を追った。
恐るべき騎兵の突撃に、このままでは漢王の身すらあわやと思われた。
しかし、項王軍は進むことができなかった。
騎兵の足元に広がる地面が、いつの間にか一面の泥沼と化していた。
朝に戦端を開く頃には、確かにただの草原であった。それが、踏み込めば足が沈み込むほどに深い泥の海と化していた。
項王軍の騎兵は、馬が泥の中に足を沈ませて、全く身動きが取れなくなった。
「お!、、、これならば、勝てるぞ!」
漢王は、思わぬ天佑に元気を取り戻した。
項王軍の強さは、とにかく騎兵の力にあった。その騎兵の突撃力が、なぜか封じられた。それによって、漢軍は不利を盛り返すことができた。
結果、漢軍は項王軍を撃退することに成功した。項王軍の追撃は、ひとまずこれで終わった。あまりにも長く続けて戦いすぎた項王軍は、兵の補給も食糧も尽き果てていた。
滎陽の城門で、凱旋した漢王を待ち受けていた武将がいた。
「大王にご面会する資格もないと存じますが、あえて参上いたしました―」
拝礼したのは、韓信であった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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