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十七 天命ある家族(2)

(カテゴリ:楚漢の章

彭城の項王のもとに、重要人物が送り届けられた。

沛を襲った彼の騎兵たちが、逃げた漢王ゆかりの者たちを追って捜したとき、網に捕らえられた者どもであった。
項王は、彼の前に引き出されて来た女と老人に対して、声を掛けた。
「― 漢王は、逃げました。私は、漢王と戦わなければならない。あなた方には悪いが、留め置かせていただきます。」
捕らえられたのは、漢王の妻の呂雉と、漢王の父の劉太公であった。
彼女たちは、沛を立ち去って審食其の兵と共に漢王と合流しようとした。だが、漢王に会う前に出くわしたのは、不運にも項王の騎兵であった。呂雉は審食其に、もはや抵抗することを止めるように命じた。戦っても、審食其ごときの指揮では、項王の鉄騎の前に全滅するばかり。呂雉は、なまくらな兵よりも自分自身を信じて、義父と共に項王に捕われたのであった。
呂雉は、周囲の兵によって座らされながら、項王を正面から見据えていた。
だが彼女の隣に縮こまって座る太公は、すっかり意気消沈していた。
無理もない。彼女たちを取り囲む項王の兵たちは、殺気立っていた。彼らは、漢王の妻と父を嬲り殺すことを望んでいた。餓狼のごとき視線を周囲全てから投げかけられて、凡庸な農民でしかない太公は歯の根も合わぬほどに震えた。その義父を守って毅然とあり続けたのは、彼の嫁の呂雉であった。彼女は、一人百殺の猛士どもに囲まれても、恐れることも媚びることもしなかった。
項王は、言った。
「漢王の后(おく)さまは、烈女ですな― 死する、お覚悟ですか?」
項王の言葉に応じて、兵たちが腰の剣を握ってがちゃり!と鳴らした。王の命令があれば、次の瞬間に女と老人は八つ裂きの膾(なます)となるであろう。
太公は、声にならない声で「ひっ!、、、」と叫んで、危険を感じた泥亀のように首をすくめた。
だが、呂雉は項王に返した。
「我は、漢王の正后。死など、少しも恐れていません。殺したければ、どうぞ殺すがよい。我らを殺したところで、漢王を倒すことなどできませんぞ。」
彼女は、鋭い目で項王に挑みかかった。もう若さを誇ることなどできない年齢に差し掛かっていたが、烈々として媚びぬいまの彼女の空気は、齢を十年も若く見せるほどに厳かであった。
項王は、むしろ優しい表情であった。
彼は、呂雉に言った。
「いや― 殺すわけには、いかない。私は、漢王を従えたいのだ。彼一人を従えれば、天下に平和が訪れるでしょう。あなた方を私のもとに留め置けば、私は漢王に優位に立つことができます。あなた方は、私が漢王を従えるための、大事な賓客です。私と戦っても勝てないことが、これまでの戦で漢王にも分かったでしょう。もし分からなければ、分かるまで何度でも思い知らせてやります。漢王には、早く私に刃向かうことの不利を分かってほしい。それで、あなた方には漢王に無益な抵抗をやめるように、どうか伝えていただきたく、、、」
項王がしゃべり続ける中途で、呂雉が遮った。
「― いい気になるでないわ、孺子(こぞう)!」
呂雉の言葉に、兵たちがざわめいた。
何人かは、剣を抜き放った。
呂雉は、押し寄せる殺気をものともせずに、項王に言い放った。
「項王。あなたが、漢王を従えるですと?、、、戯言は、いい加減になさいませ。漢王は、天命を受けた大王。彼こそが、天下を掴む男なのです。あなたが二、三の戦に勝ったぐらいでは、天下の流れを巻き戻すことなどできません。項王、あなたこそ早く天命に逆らうことの不利を分かって、漢王に従うべきです!」
項王と呂雉は、厳しい視線を交わした。
すでに、彼女の後ろには抜刀した男たちが取り囲んでいた。
切り刻まれるのは、次の瞬間にまで迫っていた。
しかし呂雉は端座して項王に向き直り、膝の前で両の手を付いて合わせた。
それから、打って変わってたおやかな声で、言上した。
「― 大王に向けて、僭越な言葉を申しました。どうぞ、腰斬の刑なり車裂の刑に処すなり、自由になさってください。ですが、我らを殺したところで、漢王はあなたに従うことはございません。戦い続ければ、きっとお分かりになられるでしょう。どうか、無益な戦は止めて和する道をお選びなさいませ。それが、双方にとっても天下にとっても、命を生かす道なのでございます。」
呂雉は、深々と項王に平伏した。
項王は、彼女の言を聞いて、押し黙ってしまった。
兵たちは、動かなかった。
長い沈黙の間合が、陣営で続いた。彼女の言葉は、将軍の叱咤よりも兵どもの動きを支配した。
項王は、ようやく低い声で言った。
「戦い続ければ、、、分かると言うのであるか。」
彼は、目を閉じて繰り返した。
「戦い続ければ、、、」
それから、彼は言った。
「私には、まだ分からない。」
彼は、立ち上がった。
「― 今の私は、戦い続けるより他はない!」
項王は、兵たちに号令した。
「漢王軍は、再び集結しようとしている。諸侯の軍が失せた今は、漢王への攻撃に集中すべし。集結した先を、討て。西へ向けて、兵を発するぞ!」
彼は、兵たちを戦闘準備に急がせた。
項王は、呂雉と太公に言った。
「しばし、命を留めておく。私と漢王のどちらを天が選ぶのか、どうぞそのまま照覧なさるがよい!」
そう言って、項王は陣営を立ち去った。
呂雉と太公は、項王の陣営で人質とされることとなった。
兵に引き具されて連行される太公は、いまにも崩折れそうであった。
呂雉は、太公を支えて彼を励ました。
「― 漢は、必ず勝ちます!」
彼女の夫にふさわしい、気概に満ちた嫁であった。
太公は、一凡人であった。息子夫婦とは、別の世界の住人であった。太公は、嫁の励ましに虚ろな目をしてうなずくばかりであった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章