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十七 天命ある家族(1)

(カテゴリ:楚漢の章

漢王の一行は、果たして沛に向けて脱出していた。

「沛には、呂氏の兄弟の兵がある。まず、あれと合流しよう。」
呂氏の兄弟とは、漢王の妻呂雉の長兄呂澤と、次兄呂釋之(りょせきし)のことである。呂澤は周呂候に、呂釋之は建成侯に封じられていた。漢王は、兄弟に向けて自分を迎えるように使者を出して命じた。
だが、漢王たちが沛にたどり着く前に、次兄の建成侯が向うから慌ててやって来た。
建成侯は、言上した。
「― 沛は、すでに項王の騎兵の襲撃を受けました!」
漢王は、馬車の座席から飛び上がって驚いた。
「なにっ、、、で、沛の家族は?」
建成侯は、言った。
「太公と我が妹は、審食其(しんいき)が守って逃れました。兄の周呂侯は、沛の目ぼしい家族と共に、下邑に落ちのびました。そして殿下と公主は、我が手の元に―」
建成侯は、漢王の二人の子を妹から託されていた。
騎兵の急襲を受けたとき、呂雉は自分の子たちを真っ先に逃がすことにした。彼女は建成侯に子たちを託し、沛から脱出して漢王と合流すべきことを命じた。そうして自らは義父や漢の高官たちの家族を守りながら逃げることを、決意したのであった。
漢王は、妻の胆の太さに感嘆した。
「何という、女であろうか―」
建成侯が、兵卒に子たちを連れて来させた。
嫡男の盈(えい)と、娘の魯元公主であった。
二人とも、互いに抱き合いながら、ずっと泣いていた。母から引き離されて、あまりにも恐ろしい体験であった。
漢王は、哀れな二人の子をいたわることもせずに、直ちに建成侯に命じた。
「ここにいると、もう危ない。まずは、逃げるぞ!」
漢王としては、まず真っ先に自分の命を守らなくてはならなかった。自分が倒れれば、漢王国は終わってしまう。自分の命の後に、父と妻であった。子供なんぞは、さらにその後であった。彼は、何としても子を逃がそうとした妻の必死の母心を、置いて顧みなかった。
漢王の一行は、審食其と共に逃れた太公と呂雉を探し求めた。
しかし、同時に項王軍の追跡からも逃げなければならなかった。
捜索は、はかどらなかった。
手掛かりのないままに、ついに漢王の身にも危機が訪れた。
項王の騎兵が、漢王の一行を捕捉して襲い掛かった。
「逃げる!、、、とにかく、逃げる!」
漢王は捜索を打ち切って、脱兎のごとく西に向かって逃げた。
「― 夏候嬰、走れ!」
漢王は、馬車の座席から命じた。
「― おうよ!」
夏候嬰は、馬車の馬に笞(むち)を打ち付けた。
彼の御者術の、腕の見せどころであった。
彼が操れば、馬車は騎兵にも劣らぬ速度で駆けた。
建成候が後続で兵を率いて、追いすがる騎兵の進路を妨害した。
攻められては防ぎ、寄せられては引き離しながら、漢王の馬車は追撃を振り切ろうと驀進した。
さすがの夏候嬰の御者術も、今は乗る客の快適よりも逃げる速さを第一とした。
漢王の座席は、激しく揺れた。
彼の脇に座る二人の子が、火を吐くように泣いた。
漢王は、鼻汁を垂らしながら泣きわめく嫡男に、怒りの感情がこみ上げて来た。
「泣くな!」
漢王が、盈を怒鳴りつけた。
しかし、大人に泣くなと言われて泣き止むような子供など、居たためしがない。泣くのは、現在の恐怖と母から取り残された悲しさのためであった。その悲しさと恐怖がますます増しているときに、叱られて感情が抑えられるほど、子供は大人にとって都合よく作られていない。
盈は、父親に恐ろしい声で叱られて、ますます泣いてぐずった。
漢王は、疾うからこの息子に対する愛情が冷めていた。それで、自分の子のぶんざいで自分の思うとおりにならない嫡男に対して、傲慢となった。ましてや、彼は他にも妾に産ませた男子がいる。この子だけが、大事というわけではない。
危急に際して、彼はただの中年男となった。
彼は、二人の子の首根っこを両手でふん掴まえて、するりと持ち上げた。
「この、親不孝者めが、、、親を苦しめる子など、いらん!」
漢王は叫んで、馬車の座席から二人の子を放り出した。
夏候嬰が、びっくりして馬車を停めた。
彼は駆け下りて、二人の子を拾いに戻った。
彼に抱きかかえられて戻って来た子たちは、顔から血を流していた。土まみれで、涙まみれであった。だが、もはや泣いてはいなかった。あまりの恐怖に、子たちは泣く感情すら喪って、いまや汚れた顔を小刻みに震えさせていた。
漢王は、言った。
「ふん、ようやく泣き止んだか。」
夏候嬰は、非難する声で、主君に言った。
「大王!、、、いい加減になされよ。太子をお棄てになられるなどは、君主のなすべきことではありません!」
漢王は、嫌な顔をして答えた。
「そいつが太子だなど、まだ俺は決めてないわ!」
夏候嬰は、言った。
「王后陛下の、お子でございましょうが!」
夏候嬰は、何としても呂雉を弁護せざるをえなかった。彼は、彼女の力を夫の漢王以上に知っていた。
このとき、盈がまたも爆発したように泣き叫んだ。
漢王は、頭を掻いた。
「わかった、わかったよ、、、連れて行けば、いいんだろ?」
冷静になって、漢王も少し反省した。
子たちに愛情など無かったが、妻を裏切ることは結局漢王の心が許すところとは、なれなかった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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