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十六 無双の大敗(2)

(カテゴリ:楚漢の章

彭城の戦は、終わった。

項王は、神人であった。
誰が、この男に逆らうことができるだろう。
漢王と共に義軍として暴虐の覇王を討ったはずの諸侯は、今や覇王にひれ伏し、許しを請うばかりであった。
項王は、平伏する諸侯に命じた。
「お前たちの将兵に命じて、穴を掘らせよ。死体を、捨てなければならない。」
諸侯は、言われるままに残った将兵を使って、彭城の周囲にいくつもの大きな穴を掘らせた。穴には、戦場に散らばる無数の死体が集められて、放り込まれた。
作業が終わった後、項王はさらに命じた。
「残余の将兵を、、、穴に突き落とせ。」
諸侯は、震え上がった。項王の兵は、主君の命を受けて直ちに全員の抹殺に向かった。
こうして、彭城を埋め尽くすほどにいた連合軍の将兵は、きれいに地上から消滅した。
項王は、号令した。
「― 漢王を、追え!」
漢王は、戦場から遁走していた。
項王の騎兵たちは、漢王の逃げた先をくまなく捜索に当った。
最もめぼしい逃げ先は、彼の郷里の沛であると読まれた。
一団の精鋭が、沛に向けて放たれていった。

荒れ狂った戦場の跡から少し離れた川辺に、朽ち果てた小塞があった。
むかし、戦国時代に楚が彭城防衛のために築いたものであった。遠い以前に放棄され、今や狐どもの住み処となっていた。
その小塞の半ば崩れた壁に、人の影が背もたれていた。
「― 気付いたか。」
影の主が、言った。
彼が声を掛けた前に、年若い男が横たわっていた。
目を覚ましたのは、小楽であった。
「― 韓っ、、、」
小楽は起きようとしたが、たちまち頭の中がぐるぐると回転した。彼は溺れて、ほとんど死にかかっていた。まだ、体が回復していない。
声を掛けた韓信は、言った。
「泳ぐのは、昔から私の得意であったよ。川を渡って逃げていく途中に、お前が多くの死んだ兵卒と共に流されて行くのを見た。私は、お前もこの戦で死んでしまったかと思った。だが、お前を取り戻さずにはおられなかった。何とか救い出してみると、お前はまだ息があった、、、それだけが、救いであったよ。」
惨憺たる敗北の後、韓信は全てを失っていた。
彼は、逃げる漢王に追いつくこともできなかった。
今の彼は、ただの敗兵の一人として、戦場の後にひっそりと隠れていた。
韓信は、小楽に言った。
「以前、私はお前を傷付けてしまった。私には、罪がある。この私を、項王に引き出すがいい、、、私は、敗軍の総指揮官だからな。」
暴風雨は、過ぎ去っていた。嵐の後、北から涼しげな風が運ばれて来た。草の匂いが、風に揺れて強くそよいだ。
小楽は、頭を横たえながら韓信に言った。
「― 死ぬ覚悟、なんですか?」
韓信は、うなずいた。
「これほどの敗北をして、生きていくことはできない。」
そう言って彼は、手に握った長剣をゆっくりとさすりながら、瞑目した。
目を閉じて沈黙する韓信は、微笑んでさえいるように小楽には見えた。
小楽は、ぶるっ、、、と小刻みに頭を震わせた。
彼は、言った。
「― 無理ですよ、、、あなたを突き出すことなんか、できない。」
韓信は、彼に言った。
「お前は、覇王の軍吏ではないか。」
小楽は、答えた。
「私は、、、もう戦は十分です。あんまりに多くのものを、見すぎてしまいました。これ以上戦いたいと、思わないんです。」
小楽は、死の淵から生還して、夢から覚めたような心地がしていた。
項王には悪いが、これまでに体験した壮絶な日々を、醒めた目で見返す心境となっていた。
小楽は、ゆっくりとこれまでに思ったことを、語り始めた。
「項王は、凄いです。あんな人は、この世に一人もいません。けれども、項王に附いて行ったら、その先にはきっと、、、何もありません。みんな、死んじゃうんです。江東以来の仲間たちは、ずいぶん死にました。それよりもっともっと多く、敵は死にました。私も、死にかけました。死ぬのなんか怖くないと思っていましたが、一度死にかけたら、もう夢中で殺したり殺されたりするのはいいや、って思うようになったんです。項王には、悪いけれど、、、」
小楽は、にこにこと笑った。
韓信は、少年が成長したのを見た。
韓信は、小楽に言った。
「そうか。私を許してくれるか?」
小楽は、答えた。
「許すも何も、私こそどうかしていました。」
韓信は、うなずいた。
小楽は、言った。
「これから、どうするのですか?」
韓信は、答えた。
「諸侯は、全て項王に降伏した。だが漢王は、逃走している。お前に許されたとしても、私の責は消えない。私は、散り散りになった漢軍を再び集めて、漢王に逃げ場所を用意する。それが敗軍の将の、責任だ。その上で、漢王に首を差し出すことにしよう。」
韓信は、微笑んだ。
小楽は、言った。
「― 逃げ出せば!」
韓信は、答えた。
「逃げ場は、ないさ。この天下は、項王の側にいるか、さもなくば漢王の側にいるかだ。決着が付くまで、逃げることはできない。」

          

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第五章 楚滅秦の章


           
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第八章 背水の章


           
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