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十六 無双の大敗(1)

(カテゴリ:楚漢の章

またも、項王の天才であった。

予想もしなかった方法で騎兵を対岸に渡し、敵の群れに叩き付けた。
漢王軍の前線は、たちまちに乱れた。
「吼喔喔喔喔(ぐぉぉぉぉ)―!」
項王が、獅子吼した。
「嘎咿咿咿咿(きぃぃぃぃ)―!」
騅が、高らかに応えた。
漢兵は、項王を見た瞬間に恐怖で持った戈が手と離れ、次の瞬間には首が胴と離れた。
呂馬童ら騎兵たちは、怯んだ敵を夏草のように刈っていった。
騎兵たちが勇戦する間に、ようやく江東兵たちも川を渡り切ることができた。
しかし、それでも彼我の兵力差はあまりにも大きい。
戦場の全体を鳥瞰(ちょうかん)すれば、いまだにさざ波が立った程度に見えた。
強烈に押す、項王の軍。
数の力で包む、漢王の軍。
両者の間には、須臾(しばし)の均衡が起った。
寡兵と大軍の、衝突である。全体を見れば、一見圧倒的な差は動かないように見えた。しかし、屠られる漢兵の数は、増えて行った。崩し、崩される間の力の均衡で、戦線は止まったように膠着した様相を示していた。
その均衡が破られる瞬間が、ついに来た。
「しゃぁぁぁ―!」
項王が叫び、数十人の敵兵の首が飛んだ。
その時、恐慌が始まった。
漢の大軍が、崩壊していった。
崩壊は、速やかであった。軍の組織は形を失い、兵はことごとく肉の柱に相を転じていった。
「山に、退けっ!、、、山に向けて、後退せよ!」
大将軍の韓信は、必死になって戦場で絶叫した。
しかし、彼の指令は誰の耳にも届かなかった。
彼の配下の兵卒を支配していたのは、覇王の恐怖から少しでも遠ざかること、ただそれだけであった。
漢兵は、韓信の見当とは全く違う方向に動いていった。
急追する項王軍を避けて退いた向こうにあるのは、睢水(すいすい)の水であった。
「あああああああ―!」
水に駆け込んだ先から、兵たちは足を取られていった。遠くから見れば、まるで夏の日に涼を求める人の群れが大挙して、川に飛び込んで行くような図であった。しかし、その実態は死への突進であった。
またしても、無数の死が繰り返された。
睢水は、兵卒が折り重なって、川はほとんど埋め立てられた。敵に討たれた者よりも、川に溺れた者はもっと多かった。そして溺れた者よりも、混乱する自軍に足を取られて圧し潰された者は、大多数であった。
「― 来たぁぁぁぁ!」
夏候嬰が、顔面を引きつらせて叫んだ。
彼は、今日の戦においても漢王の御者を仰せつかっていた。
大混乱のうちにもはや戦況すら分からなくなっていた中で、何とか山に退こうとした漢王に向けて、騎兵の群れが一直線に進んで来た。
先頭に見えたのは、銀色の名馬に跨る男。
間違うはずもなく、騅を駆けさせる項王であった。
漢王と夏候嬰は、近くにあった小丘陵に逃げ込んだ。
気付いた時には、項王軍に三重に包囲されていた。
「もうだめだっ、、、逃げるべきだったんですよ、大将軍の言うとおり、関中に逃げていれば、、、!」
夏候嬰は青ざめて、馬車の後ろに座る漢王に言った。
漢王は、答えた。
「― 言うな!」
彼は、慌てもしなかった。
さすがに、豪胆。
これが、漢王の人物としての底力であった。
漢王は、言った。
「なあに。あの子は、俺を殺しはしないよ―」
夏候嬰は、主君のあまりの楽観に、あきれた。
「ここまで包囲されて、どうしてそこまで楽な見通しが立てられるんですか!」
もはや、主従は虜にされる寸前であった。
そのとき、にわかに空が陰った。
朝まで真夏のように暑かった空気が、風と湿気を帯びた。
斉を襲った暴風雨が、ようやく南の彭城にまで下りて来たのであった。
時が経つにつれて、風雨が強くなった。
風は砂を巻き上げ、木を折り散らし、空を夜のように暗くした。
「おお、有難い― 天佑だ。」
漢王は、雨にずぶ濡れとなりながら、一笑した。
風は、西北から東南に向けて吹いていた。
漢王のいる小丘陵の東南には、項王がいるはずであった。
漢王は、風に乗せて大声で叫んだ。
「― 項羽!」
相手が聞いているのかどうかは、分からない。空は暗く、もはや視界はほとんどない。
漢王は、続けた。
「― お前は、じつに大した奴だ。俺の、完敗だ。戦では、お前に勝てないことがよく分かった。だからこれから俺は、智恵を使う。智恵で、いずれお前を倒してやるぞ、、、!」
漢王は、哄笑を風に乗せた。
風と雨は、ますます激しさを増した。
つまるところ、彭城の戦は項王の完勝、漢王の完敗であった。
漢王は、夏候嬰ら数十騎と共に、風雨に紛れて戦場を抜け出した。漢王と諸侯の軍は、わずかの項王軍のために嘘のように叩きのめされてしまった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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