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十五 死の上の二人(2)

(カテゴリ:楚漢の章

彭城から南に向かえば、わずかに高地があった。

漢軍は、項王の襲撃を避けるために、そこに逃げ込んだ。
「― 逃げたが、これからどうするのか!」
漢王は、韓信の胸倉をふん掴まえて、怒鳴りつけた。
これまでに見せたことのなかった、恐ろしい形相であった。
これが、彼の任侠の顔であった。彼の側近ですら、ほとんどはこの顔を見たことがない。だが、生死の瀬戸際に至った時、漢王は本性を表した。彼もまた、命を担保に賭けて敵と斬り結ぶ、立派な当世の任侠の一人であった。
韓信は、漢王に首を締め付けられながら、答えた。
「― 決戦しか、ありません、、、」
漢王は、彼の生返事に怒りを増して、食い殺すように問い詰めた。
「決戦だとぉ?、、、勝てるというのか。お前は、項羽に勝てるのかっ!」
韓信は、殺される気配に直撃されながら、答えた。
「、、、逃げるよりは、まだよいのです。よろしいですか、、、」
韓信は、漢王に冷静に説明した。
「我らは、項王のまさかの逆襲に会いました。項王を包囲して討つ作戦は、破られてしまいました。しかし項王は勝ちましたが、我が漢はまだ敗れておりません。漢は、すでに天下の半分を自領となしております。この彭城での失敗は、取り戻すことができるのです。むしろ今は、漢が項王とあくまで戦い続ける意思を天下に見せることが、肝要なのです。項王は最強ですが、戦は時の運です。私は、大将軍として残余の軍を指揮して項王に当り、敗れれば死ぬつもりです。大王は、このまま関中にお逃げなさいませ。そうして、これからもまだまだ続く項王との戦の盟主として、天下に臨みたまえ。私がここで倒れても、張軍師や陳平が後は大王をお助けするでしょう、、、」
韓信は、静かな目で漢王に答えた。
漢王は、彼の目に覚悟を見て取った。
首を締めた手の力が、すいと緩んだ。
漢王は、韓信に言った。
「よし。いいだろう。お前の考える通りに、するがよい。」
彼は、韓信から手を離した。
だが、漢王は突き放した韓信に向けて、言った。
「ただし― 俺も、ここで戦うぞ。」
韓信は、驚いた。
「なぜ!、、、危険です。項王の恐ろしさを、ご覧になったでしょう!」
漢王は、韓信の前で拳を握り締めて、言った。
「これからは、あの子と俺の生死を賭けた勝負だ。あの子は、見事に賭けやがった。それで、大勝ちよ。一対一の勝負で相手に大勝ちされて、こちらが命も張らずに逃げては、博亦(ばくち)も負けが決まったというもんだ。阿哥(にいちゃん)、博亦の賭け方だけは、俺の方がお前より一日の長があるというもんだぞ。」
漢王は、不敵ににやりとした。
韓信は、この男の真の力を見たような気がした。
こうして漢王は韓信と共に踏み止まることとなったが、項王軍は休息することすらなかった。項王は自軍を率いて、南に逃げた敵に追いすがった。
彭城で敗れたが、それでも諸侯軍はいまだに大軍であった。項王軍の数とは、圧倒的な差があった。
彭城の南に、睢水(すいすい)という川が流れていた。彭城の近くで、泗水と合流する。
この睢水の線が、決戦場となった。
諸侯軍は、川のこちら側に重厚な陣を張って、渡河してくる項王軍を待ち受けた。
項王の戦法は、ひたすらに突き進む。
必ず、全軍に命じて川を渡ってくるであろう。
もとより、少ない敵の兵数であった。大軍をもって逐次渡河してきた敵兵を袋叩きにしていけば、やがて先細って行く。理をもって考えれば、これで勝てるはずだ。理の当然の世界が、通用するならば。
朝、項王軍が川を渡って来た。
「― 叩け!」
韓信は、命じた。
わあっ!と一斉に、渡河してきた敵兵を自軍が包んだ。
江東の強兵といえども、敵の數が多すぎた。
彼らは川を渡った後で、勇戦しながらも着実に討たれていった。
時が過ぎても、項王軍は対岸に足場すら築くことができなかった。
対岸の項王は、苛立ちながら戦況を見ていた。
呂馬童が、言った。
「― 不利です。」
項王は、言った。
「このままでは、、、終わってしまう。」
呂馬童は、言った。
「はい。確実に、、、」
彼は、項王を見た。
項王の前に、渡河する舟の列があった。めいめいに、兵卒が乗り込んでいた。
項王は、やにわに手綱をぐい!と引いた。
騅が、高らかにいなないた。
項王は、声を張り上げて、吠えた。
「騎兵!、、、我が後に、続け!」
彼は、川に向けて騅を突進させた。
「あっ、、、!」
呂馬童らが叫んだのも束の間、項王は兵卒の乗る舟に騅を踊り込ませた。
騅は、舟から舟へと飛び跳ねながら、駆けていった。
「つ、続けっ!大王に!」
呂馬童は、慌てて後に続いた。
騎兵の群れが、兵卒の乗る舟を足場に、川を渡っていった。
馬の通り道とされた舟に乗っていた兵卒たちは用意もなく、あるいは跳ね飛ばされ、またあるいは馬の蹄に踏み付けられてしまった。
「うわっ、、、!」
渡河していた兵卒の中には、軍吏の小楽もいた。彼は、通り抜ける騎兵に跳ね飛ばされた。舟は大きく揺れて、小楽は川に放り出された。
「項王、、、!」
死ぬ思いをしながら、小楽は水の中をあがいていた。
わずかに水中から出した顔から、対岸の戦場が見えた。
対岸の戦況は、激しく動いているようであった。
そのとき、自分の足を誰かが掴んだ。
同じく水の中に跳ね飛ばされた、兵卒の一人であった。
小楽は水の中に引きずり込まれて、それきり意識を失った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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