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十五 死の上の二人(1)

(カテゴリ:楚漢の章

賭博的な戦と、謗(そし)る者は謗るがよい。

不敗の態勢を作るところから始まる兵法の視点から見れば、項王の戦法は無謀でしかない。韓信や張良子房ならば、決してこのような戦い方をしない。
だが、項王から見れば、それは無謀でなかった。
彼ほど、戦場での「勢」の駆け引きを知っていた者はいない。
たとえ百万の大軍を組織したとしても、兵という集団には必ず鈍る隙が生じる。とりわけ、勝利した直後こそ兵は驕って鈍る。力を尽して、大勝利を得た直後はどうであるか。将兵ともどもが、勝利の美酒にしばし酔いたい昂揚感に駆られずにはおられない。それは、人心の当然であった。ゆえに、名将は孫子の次の言葉を戒めとしなければならない。

― 乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず(兵勢篇)―

治、勇、強を十分に備えた兵といえども、弛緩することは速やかなのである。なぜならば、必死必殺の「勢」は長続きしないからであった。兵もまた、人間なのだ。ゆえに名将は崩れがちな「勢」をよく管理して、可能な限り知を尽くして隙を最小限に抑える努力をしなければならない。
だが項王は、その隙を逃さぬために、一挙に飛躍した。飛躍する者に対して、守ることはできない。後から、飛躍に気付いて追いかけるより他はない。しかし項王は、追いかけられる前に敵を打ちのめす。敵に乱を呼び、敵を怯に追い込み、敵を弱と化す。項王が奮い立てば、江東の子弟は鋼鉄と化した。恐るべき一日が、始まろうとしていた。
蕭の守兵を完全に屠った後、項王とその騎兵たちは一散に彭城に駆けて行った。
先頭を、項王と騅が駆ける。
その後ろを、騎兵たちが追う。
項王の前方には、大軍が駐屯していた。
彼らは、何もすることができなかった。彼らの主君は、いまだに彭城の宮殿で美酒と美女に飽いて夢見ていた。兵卒たちは、項王に斬られるよりも早く、自ら恐れて崩れていった。
項王の騎兵の突撃と前後して、泗水からは船で下った兵卒たちが上陸を始めた。
総勢、三万人。
漢王と諸侯の大軍勢とは、比較にならない少数であった。
なのに、こちらでも敵兵はじりじりと後退していった。
大軍であっても不意を付かれ、しかも指揮系統が全く緩んでいた。めいめいの守兵は、全体の状況を判断することができなかった。ただ、恐ろしい勢いで敵が突進して来ることを発見して、恐怖した。それで、ただ後退するばかりであった。だが後退しても、彭城には守るための城壁がない。
「― 南へ、退け!敵から、離れろ!」
夏候嬰が、配下に絶叫して命じた。
この混乱した状況では、いったん敵から間合いを取るより他はなかった。漢兵は、韓信の命に従って彭城から退去することに決めた。朝の彭城の城市は、駆け回る兵卒の群れで天地がひっくり返るほどに混乱した。
漢兵は去ろうとしていたが、他の諸侯の兵は動きが鈍かった。
「しゃああああ―!」
項王の雄叫びが、戦場に響き渡った。騅は主人と一体となって、踊るように跳ね、無人の野を行くがごとくに疾駆した。呂馬童ら従う騎兵たちは、強固な弾丸となって敵陣に分け入り、速やかに砕き散らした。千騎が固まって進むそれは、敵兵たちが見たことも聞いたこともない新戦法であった。
彭城の守兵は、じりじりと後ろに後ろに退いていった。
圧倒的な兵数差であるはずなのに、包むことすらできなかった。
「押せ!川に蹴落とせ!」
項王が、絶叫した。
騎兵たちが、さっと横に割れた。
広々と横隊を形作って、混乱を強める敵兵を押しやっていった。
いつの間にか、諸侯の兵は泗水のほとりにまで追い詰められていた。
「殺!殺!、、、断じて、殺!」
項王が、敵兵に向けて突っ込んでいった。
手にした長大な戈を、横薙(な)ぎに振り回した。
刃をかすめられた者は、瞬時に命を落として、後ろに倒れた。
後ろに押しやられた者は、みるみるうちに足をよろめかせた。
「殺!」
項王は、騅を駆け上がらせた。
空を踏んだ人馬から、さらに大きな弧を描いて戈の刃が振り下ろされた。
前にいた数十人の、首が飛んだ。斬られた動脈から、血が高々と噴き出した。
後ろにいた者が、血に足をすべらせて倒れた。
後ろへ後ろへ、ばたばたと倒れていった。
倒れる勢いを避けようとして、兵卒たちが慌てて後退した。
後退は、恐慌の敗走となった。
しかし、敗走する先には、川の水しかなかった。
哀れにも、恐慌が恐慌を呼んで、次々に兵が川に向けてまっしぐらに敗走していった。前に水しかないことに気が付いたときには、もはや遅かった。増水した濁流に、次から次へと流されていった。逃げようにも、後ろから押し寄せて来るので止まることすらできなかった。項王の兵たちは、川にさらわれる敵兵を容赦なく追い込んだ。
驚くべき、奇蹟が起った。
わずか三万の項王軍が、数十万の諸侯軍を敗走させた。
日が傾いた頃には、泗水の上に十余万の死体が浮かんでいた。
これほどの勝利は、いまだかって誰も聞いたことがなかった。
彭城に戻った項王を、亜父范増が迎え入れた。
「― よくぞ、お戻りになられました。」
亜父は、しめやかに覇王を讃えた。もはやこの男に、亜父が言うべき言葉など、存在しなかった。
「うむ。」
項王は、莞爾(にこり)とした。彼も、今日の勝利に多くを言う必要を感じなかった。
それから彼は、虞美人のもとに急いだ。
「― 遅かったね。」
彼女の邸宅の前で、虞美人が迎えて言った。
「私は、彭城を美しくしたかった、、、なのに、今日の泗水は死体ばかりだ。」
項王は、少し淋しそうに、言った。
虞美人は、笑って言った。
「早く、片付けなさいよ。暑いから、すぐに腐っちまう。臭気で、城市にいられなくなる。」
項王は、笑った。
「ああ― そうする。」
そう言って、項王は虞美人の手を取って、騅の上に乗せた。
それから、夕陽の映える泗水に向けて、駆けて行った。
「虞美人。あなたさえいれば、私は十分だ。これからは、ずっと私と共にいておくれよ。もう、離れて生きるのはやめにしようよ。」
夕陽に照らされた虞美人の面影を眺めながら、項王は愛しげに言った。
「私たちが進むと、こんなにも人を殺すんだね、、、!」
虞美人は、下に流れる泗水を見て、驚いた。
息絶えた無数の人間が、河岸に漂着していた。めいめいの死に顔が、静かに夕陽を受けていた。不思議に美しい、死の世界であった。
馬上の二人は、死体の群れに囲まれながら、きゃっきゃっとはしゃいで睦み合った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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