«« ”十四 神速の天兵(1)” | メインページ | ”十五 死の上の二人(1) ”»»


十四 神速の天兵(2)

(カテゴリ:楚漢の章

機械による動力が発明された以降の文明に住んでいる我々から見れば、目的地に最も早く移動する方法といえば、鉄道か自動車、あるいは飛行機を使うべきことが常識となっている。

しかし、近代に入るまでの人類の長い歴史において、東西のほとんどの文明において移動する最高速度といえば、人間の足の速さと船の進む速さまでであった。それ以上の速さでは、人も物資も届かせることができない。伝書鳩や烽火(のろし)が情報伝達の手段として有効であったのは、それらを使えば情報の伝わる速度が人や物資の動く速度を越えることができるからであった。物量と情報が最も重んじられる軍隊においても、以上のことが長い間変わらずに速さの常識であった。
もしそれよりも、速く進もうと望むならば?
確かに、馬という獣を、人間は飼っている。有史以前から、この猛獣を人間は家畜として飼い慣らす努力を行なっていた。馬は荷物を牽引する力が強く、そして馬が地上を駆ける速度は、人間の足よりもはるかに速い。
しかしながら、人間がその上に乗って走ることは、人類の歴史において以外なほどに、長らく活用されて来なかった。
中国の民は、農と商工が生活の基礎であった。
庶民の移動は徒歩と船を用い、貴人は馬車を用いた。馬に車を牽(ひ)かせることが、中国でのこの家畜の標準的な活用法であった。
戦場でも、馬に曳かせた戦車が、長い間戦いの主役であった。確かに、戦国時代以降の戦場には、騎兵がいた。だが、中国の騎兵は、他の兵卒と混ぜて運用されていた。遊牧民でない中国の民にとって、馬に乗った兵だけで戦場を疾駆させる運用法は、想定の外であった。騎兵は歩兵や弩兵たちと並んで戦場にゆっくりと展開して、限られた戦場の中で敵と遭遇戦を行なう。それが、当時の人々の固まった常識であった。
しかし。
項王は、いま、取り囲まれていた。
彼は今、常識を越えて速く戻らなければならなかった。
彭城が、危ない。
虞美人が、危ない!
常識を越えようと思案したとき、天才の火花が散った。
彼の手元には、常識を越えるための手段があった。
偶然であったが、項王は偶然を迷わず掴み取った。
項王は、急ぐことを欲したとき、遊牧民と同じ戦法を見出した。
騎兵だけで、駆ける。
他の兵卒なしで、一挙に駆ける。
項王がこれを選んだとき、神速の軍団が出来上がった。
この軍団は、常識を越えた速度で駆け抜け、戦場で敵にぶつかれば、恐るべき突破力を示すことであろう。遊牧民たちが、農耕の民を散々に蹴散らすように。
項王の命令一下、千騎足らずの騎兵が、馬上に揃えられた。
その先頭には、騅にまたがった項王がいた。
項王は、騎兵たちに叱咤した。
「真っ直ぐに、南へ向かう。遅れる者は、斬る!」
風雨が、いまだに彼らの顔に吹き付けていた。
項王は、騅の腹を一蹴りした。
騅は、高く首を掲げて、いなないた。暗い嵐の空にすら映える、美しい馬の姿であった。
「― 行くぞ!」
項王と騅が、駆け出した。
呂馬童を始めとした選ばれた騎兵たちが、遅れじと後に続いた。
またたく間に、馬どもは、煙雨の中に消えて行った。
その、同じ頃。
他の江東兵たちは、荒れる泗水に船で乗り出していた。
項王と共にいた兵数は、三万。
たった、これだけであった。項王は、各地に散らばる他の兵を集めている余裕などなかった。たとえ集めたところで、圧倒的な少数で敵地に孤立していることには、変わりがない。待ち呆けていることは、すなわち滅亡であった。ならば、直ちに飛び出すほうがよい。
三万の兵は、濁流に振り落とされそうになりながら、次々に川を下っていった。
陸を馬が駆け、水上を船が躍る。
項王の兵馬は、昼夜も構わず急ぎに急いだ。
途上の胡陵、下邑、碭(とう)などには、漢兵が分厚く陣取っていたはずであった。
しかし、それらはいつの間にか項王に突破されていた。
あまりにも、速すぎた。
速すぎるために、守備の将は突破されたことすら気付かなかった。理解できない事態を、脳髄は見ることを拒む。守備していた諸将は、彭城に急を告げることもできずに、敵の通過を易々と許してしまった。
南へ下ると、暑い夜が待っていた。
項王の一隊は、ついに彭城の西の蕭(しょう)に行き着いた。
「騅よ。さすがだ― よくぞ、疲れもせずに走り抜いた。」
項王は、愛馬の顔をなぜた。騅は、優しく低い声で応えた。
騅は、千里を駆け通しても足の乱れすら見せていなかった。
呂馬童が、言った。
「脱落者を途上捨てて来たので、さらに数を減じました。敵との兵力差は、おそらく圧倒的なものとなりましょう。」
項王は愛馬を労わりながら、彼に言った。
「― 構わぬ。身構えた兵は、拳の一撃を食らっても持ち応える。だが眠っているならば、鳥の羽音にも驚かされて逃げるものだ。まず、蕭を抜く。蕭の向うに、彭城がある。彭城は、守る城壁がないゆえに野戦より他はない。野戦となれば、私が敗れることなどどうしてありえようか、、、」
彼は、優しく騅の首を撫で付けていた。
「騅の肌は、虞美人にも劣らず艶やかであるよ―」
項王は、一瞬優しい目となった。
だが、次の瞬間彼は顔を上げて、明け切らぬ夜の地平線に目を向けた。
「― 全員、殺せ!」
項王は、後ろの騎兵たちに命じた。
騎兵たちは、項王の言葉に声も出さずにうなずいた。
「進!」
項王が、騅を駆けさせた。
騎兵たちが、後を追った。
いまだ敵の来襲を気付かずにいる蕭の城門へ、突撃していった。
城兵は、全く不意を付かれた。
やがて城内から外に向けて、屠殺される将兵の悲鳴が聞こえて来た。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章