«« ”十三 美しき世界(2)” | メインページ | ”十四 神速の天兵(2) ”»»


十四 神速の天兵(1)

(カテゴリ:楚漢の章

直前の頃、項王は確かに斉で孤立していた。

斉の田横は、言を左右にしながら攻める項王をやり過ごし、逃げる戦法を取った。すでに、漢王が諸侯を従えて動き始めている。今は項王の軍を奔らせ疲れさせればよい。やがて、彼奴は天下を挙げた大軍によって、四方から締め上げられるのみであった。
西では、彭越の兵が跋扈し始めた。
彭越は東進する漢王と再び連絡を取って、今は魏の相国に任じられていた。漢王は彭越に命じて、梁の地を好きなだけ荒らし回らせた。項王軍は、彭越の跋扈によって後方との連絡が途絶えるようになった。
項它(こうた)・龍且の軍が、定陶で敵と接触して敗れたという報が伝えられた。
このとき項王は、転戦の末に魯に陣営を張っていた。
自軍が敗れたという報を聞いて、項王は疑った。
「― 敵は、何者だ!」
彼は、使者に向けて目を瞠(いか)らせた。
使者は、恐怖で舌をもつらせながら、答えた。
「て、敵は、、、漢王軍の、曹参将軍です、、、」
項王は、信じ難いという表情になった。
彼の側に控える呂馬童が、叫んだ。
「漢王!、、、奴が、全ての指揮を取っているのだ!いかん、包囲されてしまうっ!」
斉討伐にこだわって転戦している間に、項王軍は敵地で完全に包まれてしまった。
呂馬童は、項王を見た。
項王は、拳を握りしめてわななき、己の怒りを固めていた。
「真意を、漢王に質(ただ)さなければならぬ、、、」
項王は、下を向きながらつぶやいた。
呂馬童は、絶叫した。
「真意などは、明らか!このままでは、、、」
にわかに、空に曇が走り込んで来た。
雲は、またたく間に厚みを増していった。遠くで、雷が鳴った。近くで、大きな雷が鳴った。
雨が、滴り始めた。
雨は勢いを増して、戦士たちの肩を突き刺すように降りしきった。雷鳴は、ついに間近で轟いた。雷鳴ごときで驚く江東の戦士たちではなかったが、激しい雨を受けながら不動で座り込む彼らの覇王、項王の次の動きを彼らは注視していた。彼らが真に畏怖すべきものは、神のごときこの覇王の、一挙手一投足であった。
いっそ泳いでしまいたい程に増し重なる雨量の中を、かすかに駆ける足音が聞こえた。
足音は近づいて、泥を跳ね上げる音がようやく雨音と区別できた。
「― 注進、注進です!」
やって来たのは、軍吏の小楽であった。
呂馬童が、言った。
「小楽、何があった?」
小楽は、項王の前で膝を付いて、急いで注進した。
「亜父からの使者が、我が陣に飛び込んで参りました!大王に、急ぎ告げるべきことありと申しております!」
聞いて、呂馬童は危機を直感した。
直ちに、亜父の使者が項王の前に連れて来られた。
使者は、漢軍の包囲を潜り抜けるために険難な道を駆け抜けて来た。項王の前にひざまずいた使者は、もはや息も絶えんかというまでに疲れ切っていた。
使者の言葉は、短かった。
「、、、漢王率いる諸侯の軍、彭城を攻める。彭城の陥落は、必至。大王、急ぎ戻られよ、、、」
言い終わって、使者は泥の中に突っ伏した。
将兵たちは、どよめいた。
彼らは、漢王によって完全に罠に落とされたことを知った。
「― 大王!」
呂馬童たちは、項王を注視した。
項王は、いまだ動かなかった。
両の目だけが、閉じられていた。
呂馬童の耳に、彼の荒い息遣いが聞こえてきた。
彼は、目を閉じて細かく震えていた。
(泣いているのか?)
彼は、疑った。
流れ落ちる雨が激しく、彼が涙を流しているのかどうか判別できなかった。
ようやく、項王の言葉が低く聞こえて来た。
「― 全ては、敵であるか。誰も、信じられぬというのであるか。私は、この世に受け入れられぬというので、あるか、、、」
彼は、おお、おお、とうめき始めた。
周囲に控える者たちは、覇王の嘆きをただ見守るより他はなかった。
苦しむ項王の脳中に、優しい微笑の面影が走った。
彼は、甲(よろい)に纏った錦繍を、握り締めた。
「、、、失っては、ならぬ!」
彭城には、虞美人がいる!
彼女を、失ってはならぬ!
愚かにも、項王は今の今まで彭城が防備できない城市に変わり果てていたことを、気にも止めていなかった。そこに虞美人を置いて出征したことにも、何の心配も置かなかった。彼は、勝つことだけを考えていた。虞美人もまた、その彼をよしとした。その二人が、今この世の全てを敵に回して、億兆の人間によって包囲されている。敵は、この世界全てであった。ならば、敵に我らの力を見せなければならない。我らの敵に、死の懲罰を与えなければならぬ。
項王は、立ち上がった。
「彭城は、我が都。虞美人は、我と一対の魂、、、汚す者には、思い知らせてくれるわ!」
項王は、雨音を吹き飛ばすような大音声で、配下に命じた。
「― これより、彭城に返す!兵卒どもよ、彭城まで一気に戻る覚悟をせよ!」
彼は、呂馬童に命じた。
「かねてより調練していた騎馬の兵、彭城まで駆けることができるか!」
呂馬童は、雷電に打たれたように、答えた。
「替え馬を用意して馬を乗り潰しながら駆けるならば、進めましょう、、、ただし、その数は千騎にも足りません。」
項王は、自らと行動を共にして戦える神速の騎兵が欲しいと思っていた。それで、呂馬童に命じて騎兵だけの軍団を調練させていた。それはきわめて斬新な構想で、いまだ調練は始まったばかりであった。
項王は、言った。
「千騎あれば、十分!、、、それらは、我と行動を共にすべし。そして、残る兵は!」
項王は、須臾(しばし)考えた。
雨が、眉の下を滝のように流れた。
彼は、言った。
「軍吏!魯中の城市に命じて、泗水に浮かべられる船という船を、大小なく全て徴発せよ。今、川は雨が降り続いて増水している。船をして下れば、彭城まで一気に着くことができる。私は、騎馬を率いて彭城を突き破る。兵卒たちは、めいめいが船に乗って彭城に横付けし、襲い掛かれ。一刻でも早く攻めかかることだけを、考えよ!」
増水した川に乗れば、下るは早い。
しかし、暴れる川は恐ろしく危険であった。それでも、項王は急ぐことだけが圧倒的な敵を打ち破る術であることを、直感していた。
小楽は、硬直しながら答えた。
「― 承知!」
呂馬童も小楽も、飛躍しようとしている天才の前に、今はただ畏れて従うばかりであった。
項王は、騅に飛び乗った。
彼は、風が増して嵐にすらなろうとしていた雨の中、軍中に向けて叱咤した。
「この私は、必ず勝つ!諸君らは、勝つことだけを考えよ!」
将兵たちは、項王に応じて怒声を爆発させた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章