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十三 美しき世界(2)

(カテゴリ:楚漢の章

項王と、漢王。

恐るべき子供と、狡猾な大人。
片方は、地上の人を見向きもせずに天を駆ける。もう片方は、あえて低きに降りて高慢な人の心を引きずり込む。
二人は、火と水のように違った。
火と水は、相剋する。ゆえに、二人が相戦うのは、陰陽の理の必然であった。
しかし、奥義を言うと水と火は相補う。水は草木を養うゆえに、火の元を作る。火は諸元素を焼き戻し、地上の気を再び天に昇らせて雲を呼ぶ。雲は雨となり、また水の元を作る。火が気を高く昇らせるゆえに、やがて下降の気を呼び覚ますのだ。逆も同じ。ゆえに水と火は、一見したところ相戦いながら、その実宇宙の奥底で相補っている。
項王と漢王は、全く違う道を行きながら、同じところがあった。
― 自分が最も強いことを、疑いもなく知っている。
だから、漢王は項王が分かるのであった。項王の考えることは何一つ分からないが、項王の心が望むものだけは、分かるのであった。虞美人に言ったように、彼は項王のことを愛していた。
漢王は、燈火に照らされる帛を眺めながら、いつしかふ、ふ、ふ、と笑い声をこぼしていた。
「無理なことを、望んでいる―」
漢王は、虞美人に言った。
「決して手に入らないことを、無理に望んでいる。世の人は、そのようなものを誰も望みはしない。それは、無理だからだ。俺は、無理の手前で留まるような人間どもなど、捨てても惜しくはない。しょせんはこの俺に、組み敷かれるべき奴らよ。だが、やはりあの子は、大した奴だ。この世に、またとない―」
漢王は、帛の絵をまじまじと眺めた。
虞美人は、笑って言った。
「気に入った?」
漢王は、莞爾(にこり)とした。
それから、棲(しとね)に座る虞美人に向けて、踏み出した。
「あの子と戦うのは、俺の快楽だ―!」
彼は棲に飛び入り、虞美人を押し倒した。
絹の棲が、軍靴の土足で汚れた。
虞美人は組み敷かれて、上にのし掛かる漢王を見た。
彼女は、言った。
「― 好色だね。あんたは。」
漢王は、答えた。
「俺は、世の男の代表だからな。男とは、好色なんだよ。ただ俺は権力も好きだし、贅沢も好きだ。このぜんぶを手に入れるためには、賢くなければならない。」
漢王の龍顔が、虞美人の前に迫った。
人を安心させる、不思議な顔立ちであった。この顔で、彼はこれまで男も女も騙して来た。
だが虞美人は、迫られても表情を変えなかった。
漢王は、言った。
「、、、犯すぞ。」
虞美人は、答えた。
「、、、あの子と、本気で戦う気になったんだね。」
季節は、夏の始まりの頃。
短くなった夜は、もう白々と明け染めていた。
その時、突然。
遠くで、群集の声が挙がった。
城外に屯(たむろ)する、諸侯の兵卒の悲鳴であった。
異常を察した夏候嬰が、慌てて室の外に駆け出して行った。
駆け出したかと思うと、たちまち連れ立って戻って来た。
夏候嬰と共に、周勃と廬綰が駆け込んで来た。
彼らは、一斉に叫んだ。
「敵襲!、、、敵襲だっ!」
漢王は、驚愕した。
「なにっ!」
周勃が、恐慌して言った。
「未明、彭城の西を固める蕭(しょう)の城市が、敵に急襲されて陥落!城市を屠った敵軍が、この彭城にまっしぐらに進んでいます!」
外から聞こえてきた悲鳴は、夜が明けて遠くから土煙を挙げて突進して来る敵軍を発見して、ただごとならぬ恐怖を感じ取った兵卒たちの挙げたものであった。
漢王は、叫んだ。
「なんで、突然蕭に敵が現れたというのだ!それに蕭から彭城まで、こんな朝のうちに迫れるわけがないだろうが!虚言を申すな、虚言をっ!」
恐れる漢王に、虞美人は言った。
「、、、帰って、来た。」
そう言って、彼女はくつくつと嬉しそうに笑った。
さらに、急ぐ足音が入り込んで来た。
韓信が、飛び込んで来た。
「項王です、、、項王の、急襲です!泗水からも、兵が上陸して来ました。大王、直ちにお戻りを。この彭城では、守りきれません!」
彼は異変を感じたとき、恐るべきことに気が付いた。
城壁のないこの彭城は、また占領者にとっても守る術がない。
自軍の楽勝の原因は、一転して絶体絶命の元に変わってしまった。
漢王は、予想もせぬ事態の進展に、震えながら歯ぎしりをした。
彼は、韓信に言った。
「大将軍、どうすればよいか、言え!」
韓信は、即答した。
「守り切ること、不可能!ゆえに、撤退!」
不意の不意を付かれて恐慌している上に防戦の術がない今は、断固として退くより他はなかった。恐るべき混乱と犠牲が出るだろうが、逡巡しては亡びる。
韓信は、言った。
「諸将!大王をお守りして、急ぎ漢軍を南に退かせよ。私は、まだ宮殿で酔いつぶれている諸侯を、蹴り上げて起こさなければならない、、、」
回天を企む主体は、一夜にして逆転してしまった。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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