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十三 美しき世界(1)

(カテゴリ:楚漢の章

虞美人は、漢王に言った。

「なにが、義軍だよ。ひどいこと、するじゃないか。劉邦!、、、あなたは、やっぱり大嘘つきだね。嘘つきが、天下の主となるのか。何てひどい、世界なんだろう!」
そう言って、彼女は漢王の胸の前まで歩み寄った。彼女は、長身の漢王を見上げて、問い詰めた。
漢王は、答えた。
「だが俺にとっては、楽しい世界だ。虞美人!、、、俺は、勝つためにここに来た。お前を、俺のために役立たせてもらう。お前を俺の手元に置けば、あの子は俺を攻めることなどできない。あの子と戦わずして、従わせることができるかもしれない、、、俺は、あの子とできれば戦いたくないんだよ。これは、本当のことさ。」
彼は、本当にそう思っていた。
項王と一体の虞美人を自分の手元に置けば、無理に戦わずに済む。暴虐の項王を討つなどという宣伝は、漢王にとってただ諸侯や民を踊らせるための口先でしかなった。
「俺は、あの子のことを決して憎んでなどいない。むしろ、愛しいぐらいだ。あの子を殺すのは、惜しい。」
漢王は、微笑みながら虞美人を見下ろした。
女の瞳は、厳しかった。だが、その厳しさが震えるように、魅惑した。
(この、女は―)
漢王は、月に照らされる女の影姿を、まじまじと眺めた。
虞美人は、立ち尽くす漢王を見て、彼に言った。
「― 奪いたいと、思ってるんでしょう?」
「む、、、」
漢王は、言葉を返さなかった。
虞美人は、言った。
「私を奪いたいと、あなたは今思った。なのに、奪おうとしない。天下の主が、奪おうとしない。だから、あなたは嘘つきなんだよ!」
虞美人は、やにわに右手を挙げた。
その手を、見下ろす漢王の頬に向けてぶん回した。
― ぱしん!
思い切り頬が叩かれた音を聞いて、夏候嬰たちはすくみ上がった。
漢王は、声を挙げた。
「このっ!、、、調子に乗るな。」
彼は、虞美人の腕を掴んだ。
引き寄せられて、女の汗の匂いまで漢王の鼻腔に届いて来た。
虞美人は、ほとんど男に嬲られる間合いにまで近づけられて、しかし言った。
「劉邦。あなたは根っからの悪人のくせに、聖人君子のふりして人を騙す。あなたは、分かっているんだね。この世の人のほとんど全ては、冒険なんか望んでいない。自分を安全なところに置いて、自分だけいい目を見たがっている。だからあなたは人を安心させて、その上美味しいことを約束してあげる。そうやって、あなたは太って来た。あなたの約束する安心も、美味しいことも、本当はぜんぶ嘘なのに。あなたは、見事に人を騙したよ。本当に、悪賢い奴だ。でも、、、あなたは項王に勝てない。」
彼女は、漢王の手をふりほどいた。
そうして、邸宅の奥に駆けて行った。
「あ、、、待て!」
漢王たちは、彼女を追って邸内に入った。
真っ暗な回廊の向こうに、かすかな光が見えた。
漢王たちは、光の方を目指して踏み込んで行った。
中に踏み入ると、思いの他に明るかった。
大きな広間に、何本もの燭台が灯されていた。
その中央に、絹の棲(ふしど)が敷かれていた。
その上に座するのは、虞美人であった。
彼女は、入って来た漢王に言った。
「この室は、私を抱ける男だけが、入ることを許される―」
そう言って、彼女は漢王に深く平伏した。
漢王は、足を止めた。
その彼に、虞美人は言った。
「漢王― 抱けますか、私を?」
そう言って、彼女は顔を挙げた。
にこやかに、微笑んだ。
先程の厳しい表情とは打って変わって、大丈夫の腰すらとろけて砕かせる微笑であった。
漢王は、無言であった。
拳に、知らず知らずのうちに力が籠っていた。
虞美人は、言った。
「我が背後を、ご覧なさい。漢王―」
漢王は、彼女に言われて背後の壁を見上げた。
そこには、上下左右の幅何丈もありそうな、大きな帛(はく。絹布)があった。
壁いっぱいに高く広く貼られた帛には、墨で様々な絵が描かれてあった。
虞美人は、言った。
「これが、我が王が望んでいた都。ここで、あの子は楽しそうに、この絵を描いていた。邪気のない横顔は、頬ずりしたくなるほどに可愛かったわ。突拍子もないことを、どんどん思い付くの。私は嬉しくなって、彼にもっともっと大きくしろと、急っ突いてやった、、、彼は、本気だよ。」
帛に描かれた、幻のような絵。
漢王には、悪夢のようにすら見えた。
それは、新しい都を中心とした、世界の地図であった。
中心にあるのは、新しい都の彭城。その計画が、ひときわ大きく描かれていた。
彭城には、中国の全土に彫り巡らせた運河の水が、集中していた。
彭城は泗水を周囲に何重にも巡らせ、全土からの船舶が集まる都であった。
都には、城壁はない。都の姿は、ここに集まる船上から眺めれば、遠くからでも見えなければならない。彭城は、平原の中の城市。城壁があっては、旅人はどこから近付いても美しい都を見ることができないと、項王は思ったからであった。
運河は海まで届いて、数多の船の絵が海の上まで溢れ出ていた。
海の向こうには、項王が聞き知って想像した不思議なる国々が描かれていた。
燕の東にある、中国の民も移り住む豊かな半島。
その東にある蓬莱の島にあるという、この世のものならぬほどに美しい山。
楚の南にある、暑い南越の地。
象と宝玉を産する国、身毒(インド)。
西方の騎士から聞いた、大王の国々。ヘラス、リディア、エジプト、リビア、フェニキア、ユダヤ、バビロニア、メディア、ソグディアナ、バクトリア。勇敢で怜悧な、大王の戦士たち、、、
もとより、全てが空想であった。空想だから、大胆にして奔放であった。項王は、いずれ彭城から大船団を繰り出して、中国の外に向かいたいと夢を膨らませていた。その夢が、巨大な帛を埋め尽くすようにびっしりと描かれていた。
漢王は、呆れたようにうめいた。
「― こんなことを、本気で考えている。だから、咸陽を焼き払った、、、」
虞美人は、言った。
「そりゃあ自分に先立つものは、壊さなきゃね。」
そう言って、彼女はけらけらと笑った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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