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十二 陥ちた勝利(2)

(カテゴリ:楚漢の章

深更に、月が出た。

宮殿では、今も諸侯どもが大騒ぎで飲んでいた。今夜は、明けるまで続くことであろう。酒に肉、そして遊郭の女たちが、宮殿にこれでもかと運び込まれていった。
宮殿から出た月の方角を見渡すと、一つの楼閣の影が見えた。城市の富家の敷地に建てられた楼閣で、ひときわ目立つ建物であった。
その楼閣に近づく、一人の足音が響いた。
「― ここで、見つけたのだな?」
男の声が、静かに尋ねた。
問われた兵卒は、答えた。
「今も、階上におります。」
男は、楼閣の階(きざはし)を登って行った。
柱廊の豪華な塗りが、登りながらかざす燈火を受けて、照り輝いた。
最上階には、明りも何もなかった。
男が登りつめた時、月の光は角度が悪く、まだ射していなかった。
男は、闇に向けて問うた。
「亜父、范増― 彭城は、陥ちましたぞ。」
闇から、老いた声が響いた。
「― 大将軍、韓信。お主には、してやられたわい。」
ようやく、月が二人の間に光を差し込んだ。
韓信は、亜父らしい老人をここで見つけたという報告を聞いて、宴席を抜け出してやって来た。
亜父は、最上階の中央で微動だにせず座っていた。
韓信は、言った。
「これほど簡単に、陥ちるとは私も予想していませんでした。項王とは、、、愚者なのですか?」
陳平が裏切った後、迫る漢軍を前に彭城からは守備の兵卒すらも次々と消え去ってしまった。城壁のない彭城は、守る術がない。一日とて、持ち応えるのは不可能であった。
兵卒は逃げ、官吏すらも隠れ去って、亜父一人が彭城に残された。
亜父は、言った。
「もちろん、愚者だ。その愚かさは、私には計りかねる。」
韓信は、亜父がすでに覚悟を決めていることを、見て取った。
彼は、言った。
「明日には、あなたを斬らなければなりません。軍の掟です、、、許されよ。」
亜父は、静かに答えた。
「このような皺首、いまさら胴と離れても惜しくもないわい。居巣を旅立ってから、これまで二年。つまらぬ人生の最後の年月だけは、存外に喜ばしいものであった。全て、我が王のおかげよ。あの子には、感謝しなければならぬ。」
月影に照らされた亜父の表情は、優しいものであった。
亜父は、韓信に言った。
「韓信。お前では、項王に勝てぬ。」
韓信は、答えた。
「分かっております。ゆえに、これほど大掛かりな作戦を立てて、項王一人と天下との戦いに持ち込んだのです。」
亜父は、首を横に振った。
「いいや、分かっておらぬ。私は、すでに項王に彭城が陥落すべきことを急使して告げた。項王は、間もなく戻って来る。諸侯の寄せ集めの雑軍では、項王に当ることなどできぬよ。」
韓信は、言った。
「無理です。項王は、斉ですでに包囲されています。もはや彭城に戻ることは、できません。」
明日からは、陥穽(あな)に追い込んだ猛虎を仕留める作戦が始まるだろう。
項王は都を奪われ、食もなく、兵を動かすこともできない。
亜父には悪いが、これで勝負ありだった。
韓信は、言った。
「せめて項王の勝利を夢見て、命を終えられよ。」
亜父は、断固として返した。
「夢に、あらず。項王は、必ず勝つ!」
二人の間合いを照らす月が、雲で素早く陰った。
後は、沈黙が支配するだけであった。
同じ頃。
彭城の陋巷に、夏候嬰の操る馬車が侵入していた。
「― ここか。」
後ろの席に乗る漢王が、夏候嬰に聞いた。
夏候嬰は、答えた。
「ここです。ここが、虞美人の邸宅です。」
漢王は、にやりと笑った。
彼もまた、痴れる諸侯どもを一旦はぐらかせて、宮殿から城市の中に抜け出していた。
漢王は、聞いた。
「中に、いるんだろうな。」
夏候嬰は、答えた。
「遊郭の者どもを縛り上げて、聞き出しました。逃げずに、ここにいるとのことです。大胆な女です。」
漢王たちは、挨拶もせずに門を通り抜けて、邸内に踏み込んだ。
「守る者とて、いないのか。項王の夫人なのに―」
夏候嬰は、用心のため大勢の兵卒を連れて邸宅を包囲させたが、誰一人中から応戦しようともして来なかった。邸宅の中からは、物音ひとつ聞こえて来なかった。
漢王は、中に向けて叫んだ。
「虞美人!、、、俺は、漢王劉邦だ。お前を、、、」
そこまで言いかけたとき、中から女の笑い声が聞こえた。
「― 漢王が!劉邦が!、、、私を奪いに、来たのかい?」
けたたましい笑い声を立てて、中から女が現れた。
漢王は、言った。
「違う、、、人質だ。」
虞美人は、さらに笑った。
「嘘をつけ。自分のものにしたいんでしょう?、、、あなたは、そんな男だよ!」
虞美人が、表に現れた。
夏候嬰たちは、はっと息を呑んだ。
ふ、ふ、ふ、と笑う虞美人の衣装は、純白の薄絹であった。
背後から挿す月の光に、あまりに薄い衣は肌の内までが透けて見えた。
衣も薄絹ならば、裳(もすそ)も薄絹であった。その下には、肌より他に何もない。
このような姿を見せる女など、男たちは誰も見たことがなかった。
「、、、夏の、夜だからね!」
虞美人は、漢王の前に立って、はしゃいで見せた。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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