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十二 陥ちた勝利(1)

(カテゴリ:楚漢の章

諸侯の軍は、暴虐の項王を討つ義軍。
漢王は、いにしえの武王に倣う、仁義を尊ぶ盟主。
それが、今回の出師の宣伝文句であった。

だが、正義の軍などが古今東西の歴史において実在したためしが、あっただろうか。
上は何と奇麗事を言おうが、現場の兵卒は相手を殺すか自分が死ぬかだけが、手応えのある現実であった。彼らは今日を何とか生き伸びたいと願い、あとは隙あれば爪の先ほどの役得を拾いたい。普通の兵卒の考えることなどは、そのぐらいであった。
諸侯や将軍は彼らの方で、一皮めくれば暗い憎悪の感情を隠し持っていた。正義という言い訳が付けば、我が兵卒どもにも復讐の機会を与えてやるという名目で、上下揃って敵地の民に暴行を加えることにためらうこともなかった。ましてや、彭城はあの咸陽を屠り尽くして火に掛けた、稀代の暴君の都ではないか。天誅の時は、来たのである。
彭城に大挙入城した連合軍は、たちまち好き放題に城市を荒らし始めた。
あちらでは、掠奪。
こちらでは、暴行。
義軍は、速やかに堕落していった。
「ああ、、、こりゃあ、だめだな。止まらないや。」
漢王は、もと県庁であった仮の宮殿から下を見て、あきらめたように漏らした。
王の横には、張良子房がいた。
彼は、いま痛恨の思いで、階下に広がる状況を眺めていた。
漢王は、張良の側を向いて、言った。
「義軍という宣伝が、効きすぎたようだな、、、子房?」
張良は、答えなかった。
城内に勝ち誇って侵入した諸侯は、率先して奪い、犯し、敵の民を苦しめて喜んだ。
配下の軍吏や兵卒どもは、嬉々として主君の後に従った。
食には気を使っている漢軍と違って、諸侯の兵卒などはろくに食糧すら与えられていなかった。徴発して、武器を持たせて、軍律違反があれば斬り捨てる。上層部が与えてくれるものは、ただそれだけであった。
だから、彼らは鬱憤を晴らす機会を与えられれば、大暴れするのは当然であった。今、上層部が掠めてもよいと、許したのである。現に、主君も将軍も、斗酒を食らったように上機嫌でやっている。もう、下を抑える規律などは存在しなかった。
漢王たちの眼下で起っている光景は、まさしく一年前の咸陽の再来であった。
「― 何とか、止めなければなりません。」
張良は、震える声で言った。
漢王は、脱力したように、相槌を打った。
「そうだな、、、」
以前彼が咸陽に一番乗りしたときには、占領したのは彼の軍が圧倒的な主役であった。だから、漢王が掠奪を禁止すれば、威令を届かせることができた。だが、今の五十六万の軍は諸侯の連合軍であった。漢王が眺めてばかりなのは、引き止める威令が全軍に到底届かないことが、彼には分かっていたからであった。
だがこの醜態を、放置するわけにはいかない。
張良が、漢王の方を向いて、言った。
「今夜諸侯を集めて、勝利の酒宴を開かれよ。」
漢王は、張良らしからぬ提言に、少し呆れた。
「酒宴?」
漢王は、聞いた。
張良は、階下を指差しながら、厳しい表情で答えた。
「この、階下の者ども、、、これらをもはや人間と思うべきでは、ありません。衝動のままに振舞うだけの、禽獣にすぎません。禽獣に、人間の説得は伝わりません。食わせて飼い慣らすしか、ないのです。」
彼の飼い慣らすという言葉を聞いて、漢王ははたと手を打って理解した。
「子房!、、、君は、大した洞察をするな!」
漢王は、彼を賞賛した。
張良は、王の賞賛など今は十分であると言わんばかりに、醒めた声で返した。
「致し方、ありません。一夜を割いて、大いに都の陥落を諸侯と共に祝いたまえ。酒宴の中で諸侯に好きなだけ飲食させれば、少なくとも外の民に迷惑はかからないでしょう。酒宴は、大王のお得意とするところです。どうか、民のためによろしくお願いします。」
張良は、漢王に深く拝礼した。
漢王は、頭を掻いて承知した。
「わかった。わかったよ、、、」
張良の言うとおり、確かに酒宴で客を上機嫌にさせることは、彼の得意の術であった。
こうして、義軍は敵の都で戦わずして、夜には勝利の酒宴となった。
盟主の漢王の名で、諸侯や将軍を招いて椀飯振る舞いをすることが、伝えられた。
彭城に店を構える大小の商家に強いて、飲食を届けることが命じられた。
彼らは、それで狼藉が抑えられるならばと、命に応じるより他はなかった。
「全ての兵卒にも、飲食を与えよ。彼らは城外で、祝うがよい。」
漢王から、全軍に向けて伝えられた。
彭城の仮の宮殿が、そのまま酒宴の会場となった。
諸侯たちは丁重に堂舎に迎えられて、このご時世に珍しいほどの美酒珍肴が振舞われた。
集められた正義の諸侯たちは、用意された豪華な酒食にすっかり上機嫌となって、勝利の喜びに浸った。覇王の都への復讐も、どさくさまぎれの掠奪の衝動も、ひとまずは彼らの頭から消えて行った。
「― 昔、ここでお前と郡守の宴席に出たことがあったっけな、阿哥(にいちゃん)?」
漢王が、大騒ぎの中で大将軍の韓信に言った。
韓信もまた、漢の大将軍としてこの宴席に座を占めなければならなかった。
上座に座る漢王の横に控える韓信は、少しく無愛想であった。
彼は漢の大将軍として、当然この宴席に出なければならなかった。しかし、彼は占領の夜に無軌道に走る諸侯を酔わせておだて上げなければならない破目に陥るなど、予想もしていなかった。彼は今日、自分の構想が全く不十分であったことを、思い知らされてしまった。
韓信は、漢王に言った。
「私は、あの郡守の酒宴に張軍師の依頼を受けて出席したのです。そこで、私は初めて大王に出会いました。あの場には、常山王も陳餘もいましたっけ。その頃この彭城で、私は項王にも初めて会いました。」
漢王は、言った。
「ほう。そうだったのか―」
韓信は、ようやく笑って言った。
「あの頃から、驚くべき少年でしたよ― 虞美人といっしょに、連れ立って、、、」
漢王は、その名を聞いた時、あっ!と声を挙げた。
「そうだ。ここで虞美人の舞を見た、、、もしかして、今この彭城にいるのではないか?」
漢王の目が、光った。

          

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第二章 伏龍の章


           
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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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