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十一 何という勝利(2)

(カテゴリ:楚漢の章

韓信は、馬を走らせていった。

「項王は、予想外の男だ、、、いったい、何があるというのか?」
彼は、これまで頭の中で幾種もの彭城攻略の作戦を描いていた。慎重な包囲戦から大胆な野戦まで、複雑な用兵を可能な限り想定して今日に当ったつもりであった。だが、馬上で走る韓信は、それら全てを捨てなければならないかもしれないと、予感した。
近づく夏を感じさせる空気が蒸し暑く、遠くへの視界が悪い。
「暑いな、、、屍体は、一日で腐臭を放つだろう。」
韓信は、ふと夏の戦の悲惨を思って、厭わしい気分になった。
彭城の城市は、なかなか韓信の前に現れなかった。
馬を進めたが、まだ視界が悪い。
諸侯の兵卒が、ぞろぞろと前に進んでいた。
韓信は、不審に思った。
「― もう、先発部隊の陣営、、、」
一瞬、彼の距離感がゆらいだ。
項王の都を取り巻いて布陣する、攻城の間合いにまで迫っていた。
なのに、彭城はまだ見えない。
彭城は、大きな城市である。戦国時代の首都ではなかったので、城壁は壮麗に飾られていない。それでも、要地を占める大都会として、無粋ながらも十分に高く積み上げられていた。その城壁が、真っ先に見えるはずであった。韓信の目は、彭城の城壁を無意識のうちに探していた。
韓信は、にわかに馬の足を止めた。
「― まさか!」
彼は、目から先入主を振り捨てて、城市の方角を見た。
もうすでに、城市の中まで見える距離に近づいていた。
城市の中が、軒や甍まではっきりと目に写った。
これまで目が見ようとしなかった光景が、韓信の意識にようやく昇った。
彼は、恐慌して叫んだ。
「ない!、、、ない!、、、なぜ?」
奇怪。
奇怪すぎる、風景。
彼が知っている、巍巍として高い彭城の城壁が、彼の目の前から取り払われていた。
城壁のない外から通り抜けの道を、兵卒が隊伍をなして進んでいた。
抵抗する遮りさえもなく、先発の諸侯は易々と彭城に入城していたのであった。
「罠か?、、、それとも、項王は、、、」
韓信は、計略があるのではないかと思った。
彼は、ひとまず冷静になって城市を観察した。
城壁は、明らかに意図的に崩されていた。
城市の前を流れる泗水に目を移すと、そこにも土木の跡が見えた。
「― 河港か。」
どうやら、川を抉(えぐり)り抜いて、水路を作ろうとしているようであった。
城壁の撤去と共に、何らかの計画をもって城市に手を加えようとしている跡が見て取れた。しかし、現在の形では侵入者に入ってくださいと言っているような、ものであった。
彼が警戒した罠は、結局どこにも見つけることができなかった。彭城は、その日のうちに陥落した。
韓信は、予想もしなかった勝利に、かえって衝撃を受けた。
自分の陣営に戻って、彼は独語した。
「このような彭城を残して、項王は出征したというのか?― 項王は、、、」
愚者であるか。
ただの、愚者なのであろうか。
韓信は、理解ができなかった。
陳平が、彼の陣営にやって来た。
「だから、申したでしょう。彭城は、簡単に陥ちるのです。」
彼は、韓信の前に進んで言った。
韓信は、前もって陳平から彭城攻略が容易であると告げられていた。だが、彼はその言葉を困難な城攻めの見通しが明るいだろうと言っているぐらいに、捉えていた。城壁もなく、しかも無抵抗で入城できるなどとは、考えることもしなかった。それほどに今の事態は異常そのものであったが、想定できなかった韓信もまた迂闊であった。
韓信は、陳平に聞いた。
「これは、罠だろう?」
陳平は、答えた。
「いいえ。罠などは、どこにもありません。それがしは、これまで項王の側にいました。断じて、項王は罠など張っておりません。丸裸の彭城をそのままにして、斉に出征したのです。」
韓信は、驚いて言った。
「何のために、このようなことをしたのだ!」
陳平は、答えた。
「よく分かりませんが、、、項王は、城壁が嫌いだったのでしょう。城壁は息が詰まる、と彼はしばしば言っておりました。それで、彭城の城壁を壊し、泗水を掘り抜いて周囲に巡らせようとしました。項王は、彭城を作り変える非常に大きな計画を、心中に持っていたようです。今の姿は、そのほんの始まりなのですよ。始めた途端に、我らの手に陥ちたというわけなのです。」
韓信は、項王の愚かさに今さら驚愕するばかりであった。
「この戦が迫っている時に、都を作り変えるのか?」
陳平は、薄笑いをして返した。
「― それが、項王なのです。」
彼は、驚く大将軍に対して進言した。
「もう都は、陥ちました。大将軍は、速やかに次の作戦に移りたまえ。項王は、このように何をしでかすか分からぬ男です。驚くべき愚者で、そして恐怖すべき天才です。大将軍、動きたまえ。時を浪費しては、いけません!」
陳平の、言うとおりであった。
彭城陥落が成った今は、諸侯を急がせて次の作戦に進ませなければならない。
だが、彭城になだれ込んだ諸侯は、これも韓信が予想もしなかった事態に転落していった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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