«« ”十 完勝か五分か(2)” | メインページ | ”十一 何という勝利(2) ”»»


十一 何という勝利(1)

(カテゴリ:楚漢の章

四月。
漢軍をはじめとした諸侯の連合軍五十六万が、ついに項王攻撃を開始した。

漢の最精鋭である曹参・灌嬰・樊噲の軍は、項王軍に直接当る役目であった。城陽の田横を攻めていまだ決着を付けられないでいた項王軍を包囲して、動きを散らしてしまう。彼らは猛虎を巻き狩りにして討つための、釘付けの兵であった。
「― 項王軍を恐れずに立ち向かうことができるのは、諸君ら漢軍だけだ。敵に戦場の方向を、見えなくさせればよい。その間に、大王は諸侯を率いて彭城を取るだろう。猛虎を討つためには、彼から何もかも剥ぎ取って、幾重にも包み込むのだ。」
大将軍韓信は、修武から進発する前の曹参らに訓示した。
確かに、彼を討つにはこれが唯一の方法であった。
秦軍を破り、田栄を葬った例に示されているように、一人で万の兵にも相当する項王を正面から打ち破るのは、誰にもできそうにない。できることは、状況そのものを彼の敗北に持っていくことであった。猛虎が牙をむいて襲いかかろうとしても、陥穽(あな)の中にはまり込んで脱出できない地点にまで、彼を追い込むのだ。
曹参が、言った。
「大将軍にこのようなことを聞くのは、おこがましいかも知れません。ですが― 勝てますかね、あの項王に?」
韓信は、答えた。
「わからん。」
灌嬰が、声を挙げた。
「大将軍が勝てるかどうかわからん、とは!」
しかし、韓信は彼に言った。
「郎中。君は、項王と戦場で戦って勝てるか?」
灌嬰は、言葉に詰まった。
だが彼は、大将軍に不満を言った。
「― だから、大将軍に勝てる策を求めているのではありませんか!その大将軍が勝てるかどうかわからないのでは、何のための戦ですか。私の言っていることは、間違っているのですか!」
漢軍の将たちは、死を恐れるわけではない。しかし、曹参も灌嬰も項王と戦って勝てる確信など、全く持てなかった。勇猛さでは漢軍で他の追随を許さない樊噲ですら、自らが項王に及ばないことを認めていた。彼らしい謙虚な自己認識で、決して虚勢を張ることなどなかった。
だから、灌嬰が上に立つ大将軍に勝利の保証を求めたのは、しごく当然のことであった。
その彼に韓信は、答えた。
「私は、これから行う作戦が最上の勝利の道であると、考えている。だから、あえて進もうとしている。私は、大将軍である。勝つために最善の策を立てるのが私の任務であり、敗れれば罪を負うだけだ。私は、諸君らが最も戦ができる将であることを分かっているからこそ、諸君らに偽りを言いたくない。これは、大掛かりな賭けだ。我らは勝ち目にあるが、将来に絶対はありえない。勝たなければならないが、私が勝てると断言するのは、偽りでしかない。それが、戦なのだ。」
天下は、打ち続く戦乱で苦しんでいる。
今は、勝ち目が見えたならば、一挙に突き進むべきなのだ。韓信は、漢王に勧めて漢中からの脱出を策した時から、勢いを膨らませて畳み掛ける方針を続けていた。これまでは、予想どおりに諸侯を巻き込み、項王を孤立させることに成功した。今、項王を狩るための作戦に進もうとしている。「勢」を重視すべき兵法家としては、満点の出来であった。
だが、兵法はもう一つのことを教えている。
― 善く戦う者は、善く勝つべからざるを為すも、敵をして勝つべからしむること能わず(軍形篇)―
味方の側が整えることができるのは、味方の隙を固めて取り除くことだけである。だが敵の側の動きは、将が自在に操れるものではない。将は勝てる機会があればそれを取ることにためらってはならないが、それで敵が思うとおりに敗れてくれるなどと、決して考えてはならない。それで、将はどのような突発事が起ころうとも全てを失ってしまわない態勢を作ることがまず最初であることを、孫子兵法は教えているのであった。
韓信のひそかな憂いは、ただ一つの突発事であった。
― 項王は、予測できない。
彼は、まさに戦の天才であった。
もしかして、全く予測が付かないことを起こすかもしれない。
だが、天才の為すべきを予測することなどは、韓信の理論を越えていた。それで、彼は拭い切れない憂いを置いて行ったままで、進むより他はなかった。項王は、倒さなければならないのである。
韓信は、諸将に言った。
「諸君らは、項王を討ち取るのが目的でない。ゆえに、諸君らは必ず勝つであろう。だが、決して油断してはならない。」
曹参と樊噲は、韓信に拝礼した。
灌嬰も、今は大将軍に拝礼した。
いよいよ漢王軍は、修武を出発した。
河水(黄河)を一挙に渡り、一路東に進んだ。
諸侯の軍が、続々と漢王軍に付き従って来た。
曹参・灌嬰の軍は、定陶の南で項王の支軍と接触した。勝利は、漢軍のものであった。
樊噲の軍は、鄒(すう)から魯に進み、薛(せつ)に到った。項王の軍を、背後から包む構えであった。
その間に本軍は、項王の領地を侵食していった。
梁魏の城邑の間を、縫って進み。
碭(とう)を抜き。
蕭(しょう)を降し。
四月のうちに、彭城に到ってしまった。
「おかしい、、、早すぎる。」
韓信は、進撃の速度があまりに予想外であることに、懸念を抱いた。
今朝、先発する諸侯の一軍が彭城に入ったという情報が、韓信に届いて来た。
韓信は、大軍の統率者としてずっと後方の陣営にあった。
彼は、今朝の情報に自分の耳を疑った。
「そんなはずは、あるまい!覇王の都ではないか。なぜ、こんなに易々と入ることができるのか?」
彼は、伝令の兵卒に問い質した。
「しかし、、、そのように伝えられたのです。」
伝令の兵卒は、あるがままを答えた。
韓信は、思わず大声を挙げた。
「ならば、その情報がおかしい!、、、おかしいはずだ、、、、何かが、おかしい。」
韓信は、異変を直感した。
彼は直ちに馬に飛び乗って、彭城を攻める最前線に直行した。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章