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十 完勝か五分か(2)

(カテゴリ:楚漢の章

張良子房は、ここ数日もまたすこぶる体調が悪かった。

それでも、この戦には漢王と共に進まなければならない。
張良は、進撃が始まるまでのしばしの間、修武の宿舎で臥せっていた。
「いったん進めば、休むことすらままならぬ日々となるだろう。この命も、天下と共に静まればよいが。」
床で語る張良の横には、従者の陳麗花がいた。
「公子。そのようなことを、おっしゃらないでください、、、!」
張良は、彼女の方を向いて、言った。
「― 不思議なことが、あるのだよ。これほどに苦しいのに、どうもあきらめの心が私の中に染み渡って来ない。早く戦を終わらせて、この苦しみからも抜け去りたいと願っているはずなのだが、、、」
麗花は、また泣いていた。
彼女は、衰えていく主人の側に常に寄り添って、介抱を続けていた。最近の主人は、床に伏せって苦しむ時が多くなった。そんな時には、彼女は主人を労わり慰めながら、少しでも彼の苦痛を和らげたいと願うのであった。彼女が主人のために涙を流すのは、もう毎日のことであった。
すすり泣く麗花に対して、張良は言った。
「終わらないので、あろうか― もしかして。」
麗花は、彼の言葉に反応して、涙をぬぐう手を止めた。
彼女は、言った。
「― 一日でも、終わらない方が!」
それは、公子の命のことであった。
しかし、張良は伏せながら、小さく首を横に振った。
「だめだ。終わらなければならない。勝てるはずだ。勝てる、はずなのだが、、、」
そう言った後、彼の体にまた苦痛が襲って来た。
麗花が、慌てて主人ににじり寄った。
幸いに、発作はすぐに止んだ。
その時、門衛の兵卒から来客が告げられて来た。
張良は、来客者の名を聞いて、通すように申し付けた。
入って来たのは、陳平であった。
彼は、床に寝付く張良子房の姿を見て、嘆いて言った。
「何と、お労しや、、、!博浪沙の英雄が、このようなことに!」
陳平は、張良の枕元ににじりよって、手を取って哀悼した。
張良は、麗花に助けられて、床から体を起こした。
彼は、陳平に言った。
「― 君は、項王の側近であったな。その君もまた、項王を棄てたのか。」
陳平は、答えた。
「その通りです。項王に、それがしは必要ありません。ゆえにそれがしを必要とするところに、こうして赴きました。」
陳平は、屈託がなかった。やつれた張良と対照的に、まことに血色よく精力的であった。
陳平は、張良に言った。
「それがしが郷里の戸牖(こゆう)にいた頃、博浪沙の男はそれがしの憧れでした。あの始皇帝を身一つで襲撃しようとした壮士がいたことを聞いて、郷里で貧窮の極みにあったそれがしは、必ず自分も何かを為さなければならないと奮起したのです。それがしの今日あるのは、軍師のおかげでございます、、、!」
彼は、いま憧れの人と共に語っていることが、なんとも嬉しそうであった。
麗花は、一人で嬉しがる彼に自己本位の性格を感じて、内心で嫌がった。
張良は、言った。
「― 君は漢軍にやって来たとき、素裸で走り込んで来たとか、、、本当かい?」
彼は、小耳に挟んだ妙な逸話を話題に出した。明るさを押し留められない陳平の空気に合わせて、明るい話題を振ってやった。
陳平は、白い歯をにこにこと出して、うなずいた。
「彭城から逃げて、河水(黄河)を渡るときでした。雇った船の船頭どもが、怪しかったのです。それがしの身なりが高位のものであることを見抜いて、奴らはそれがしを殺して金品を強奪しようと企みました。それがし金品などは、惜しくありません。しかし、自分の命は棄てることができない。命を永らえるために、それがしは船中で服を全部脱いでやりました。宝など何もないぞ、この服ならくれてやるぞと言ってね。奴らは、素裸になったそれがしに呆気に取られました。そのまま自分で船をこいで河を渡り切り、漢軍に逃げ込んだのです。」
張良は、一笑いした。
「大した奴だな、、、君は。」
陳平は、答えた。
「おかげさまで。」
張良は、言った。
「その上、早くも漢王に取り入った。」
陳平は、答えた。
「大王のお側に近づくために、それがしは何でもします。」
張良は、不審に思って聞いた。
「何でも、、、?まさか。」
陳平は、無言で莞爾(にこり)とした。色白で肉付きのよい、優しい顔立ちであった。
張良は、長い声を出して嘆息した。
「― はあ、、、君は、何て奴だ!」
陳平は、笑いながら言った。
「軍師は、大王より年長者でございますからね。いくら大王でも、手を付けるわけには参りません。しかし大王が女色だけに趣味を限らないのは、軍師もとっくにご存知のことでしょう?」
張良は、この自在で快活な才子の話を聞いて、愉快になって来た。いつもの苦しみも、和らぐ気分であった。
「いやはや、君が漢軍に来たのは、心強い。これからの戦、見てのとおり私はこのような体なので、思うように漢王に進言できないだろう。君は、献策者として漢に来たのであろう?」
陳平は、答えた。
「もちろんです。」
張良は、言った。
「ならば漢王を、補佐してやってくれ。君の才は、漢のためにきっと役立つであろう。君が目論んだ、とおりにな。」
陳平は、言った。
「戦の後のことも、それがしにお任せくださいませ― 戦が終わってからの、ことですが。」
張良は、言った。
「戦の後のことなど、まだ早い。」
しかし陳平は、言った。
「そういうわけには、参りませんよ。大王のために、戦で功が過ぎた者は除かなければなりません。後の後まで天下経営の策を考えておくのが、献策者の役目なのですから。さしずめ、大将軍などは―」
張良は、遮った。
「やめなさい。今は。」
陳平は、言い過ぎたことを反省して引き下がった。
二人のやり取りを横で聞いていた麗花は、陳平が主人とは全く違う人間であることを感じて、彼の嫌悪感を捨てなかった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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