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十 完勝か五分か(1)

(カテゴリ:楚漢の章

漢王とて、これが項王を葬る一戦であることなど、半信半疑であったのかもしれない。

勢いに乗って一挙に東に兵を向けたものの、あまりにもうまく出来すぎていた。
こんなに簡単に天下が平定できるのならば、天下とは何と軽いものではないか?
漢王は、次々に馳せ参じて来る諸侯士大夫のたぐいを笑って迎え入れながら、一つのことを思っていた。
(やっぱり、あの子は抜きん出ている。この国の諸侯など、あの子の足元に近づける人物すら、見当たらない、、、)
漢王に忠誠を誓う諸侯たちは、揃いも揃って時節到来の喜びに、満ち溢れていた。
「― 項籍などは、むやみに強いだけではないですか。王道とは、武力にあらず。徳力によって、天下万民をなつかせるものです。だが項籍の道は、武力しか恃みにせぬ全くの覇道です。覇道は、必ず亡びる。いや、亡ぼさなくてはならない。これまで天下の諸侯は、項籍の暴風にあおられてやむなく頭を垂れていました。項籍は、股肱となるべき諸侯を足蹴にして扱い、恥じることがありません。いったい近き家臣を愛さずして、どうして巨室の国を治めることができましょうか。支えるべき諸侯を顧みずして、どうしてさらに巨室の天下を治めることができましょうか?― 見よ。ゆえに我らはこのように項籍を棄てて、大王の旗の下に集うことに相成りました。項籍は、我らを棄てたゆえに、棄てられたのです。彼が天下を敵に回して亡びるのは、まことに当然にして道理ではありませんか、、、」
諸侯を一同に会して慰労した席で、諸侯の一人が漢王の前で口角泡を飛ばした。
「、、、そうですな。おっしゃる通りです。」
漢王は、愛想笑いをした。
項王に復讐するための宿り木を見つけて活気付く諸侯は、宴席で口々に項王を罵った。罵る内容は、次第に低劣なものになっていった。
「― 項籍めは、若輩のぶんざいで年長の我を散々に顎で使いおった。あのような礼儀知らずに、人の世を生きる資格などなし!」
「― 項籍は、せっかく我が娘を側室にと差し上げたにも関わらず、付き返しおった。それだけではない。この我に面と向かって、恥知らずと怒鳴りつけたのだ。恥知らずとは、何だ!、、、君主のしきたりを知らぬ奴の方が、恥ずかしいわい!」
「― しょせんは、荊舒(けいじょ)の川猿であるよ。地の果ての江東などに移り住んで、田舎者がさらに野卑となった。中原のことを知らないのも、当然だ。楚人が天下を治めるなど、笑止と申すものぞ。は、は!」
彼らは、酔った勢いで漢王もまた楚人であることを、うっかり忘れてしまった。漢王は、気にせず笑っていた。彼ら諸侯の酒席の言葉など、漢王にとってはどうでもよい些事であった。
漢王は、思った。
(あの子は、正直すぎるんだな。正直すぎて、しかも強すぎる。だから、かえって災厄なのだ。どちらかが中途半端ならば、生き残れるのに、、、ところで、阿哥(にいちゃん)は首尾よく運べているんだろうな?)
彼は、韓信のことを思った。
韓信は、漢王から全権を与えられて、東に向けた壮大な作戦の総指揮に当っていた。
曹参・灌嬰・樊噲が兵を率いて、斉の田横を側面から援護する。
項王は、漢軍が現れたことによって斉の地で兵を分けて戦わざるをえない。曹参らの軍は、項王の目を逸らす囮の兵である。
その隙に、満を持して待機した各諸侯の軍が、一路東を目指す。漢王は夏候嬰・周勃らと共に自軍を率いて河水(黄河)を渡り、諸侯の軍の頭として彭城を攻略する。
総軍、ざっと五十六万。
見通しの付かない程に膨大な、動員の数であった。
これを、韓信は大将軍として統括していた。
「― やれば、できるものだな。」
韓信は、自らの陣営で一休みしながら、思った。
彼はいま、修武で漢王の後方に控えながら、指揮を行なっていた。
今回の戦は、未曾有の大軍を広大な地域に展開させるものであった。韓信とても、初めは統括できるかどうか不安であった。一つの軍団の単位が、万を越えていたのである。各軍の調整に当るためには、できるだけ全体の見渡せる後方に駐屯しながら進まなければならなかった。
思わぬ手助けが、韓信のところにやって来た。
「漢王の本軍は、それがしにお任せを―」
韓信のもとに現れたのは、陳平であった。
陳平は、都尉に任命されて漢軍の監察に当っていた。
陳平は、言った。
「大将軍は、漢王軍まで指揮しなければならないために、全体が見通せないことを憂慮しておられると存じます。それがしが監察の役に当って、漢軍を抑えます。漢軍の諸将は、兵の指揮ではみな練達の域に達していて指示する必要などありません。ただ一つの問題は、各々が勝手に勝ち進んで作戦全体を乱すことです。嫌われる役目は、それがしの得意とするところ。それがしが漢軍の手綱を締めますので、大将軍は安心して全体に目を配ってください。」
韓信は、楚軍にいた頃から彼の才覚を知っていた。その陳平が、項王を見限って漢に走って来た。
自分もまた、そうであった。
韓信は、彼に何を言っても自分に跳ね返って来ると、思った。悪びれもせずにあまりに快活に寝返って働く陳平は、正直言って彼の心に傷を付けた。しかし、韓信は正直な心を吐露することは許されていなかった。
「― そうか。よろしく、頼む。」
韓信は、大将軍として彼を信任した。
陳平は、にこやかに拝礼した。
「ありがたき、幸せ― この戦、今の時点でようやく五分と五分です。くれぐれも、油断めさるな。」
韓信は、陳平に聞いた。
「あなたも、五分五分と見るのか。」
陳平は、答えた。
「項王は、戦の天才です。敵が彼でなければ、もはや十分方我らの勝利です。どう考えても、負けるわけがありません。ですが、項王は、未曾有の戦の天才です。何を起こすか、予測が付きません。」
韓信は、陳平が自分と同じことを思っているのを、知った。
「項王、、、間もなく、その結果が出る。」
韓信は、空を向いて独語した。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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